「民団」「朝連」の地方組織の拡大競争
1948年8月15日に「大韓民国」が建国された。翌月9月9日には北にスターリンの傀儡政権「朝鮮民主主義人民共和国」ができた。
これにより、「民団」は自由民主主義の「大韓民国」を、「朝連」は共産主義を支持することが明確になった。当初、「朝鮮人の集まり」という程度の認識だった「朝連」が北への追従が明らになるにつれ、「朝連」から「民団」に移る同胞も増えた。だが、「朝連」に比べて「民団」の団勢は圧倒的に劣勢だった。
「朝連」は1949年時点で、全国に48地方本部、570支部、2700班、盟員は約10万人だったとされる。
一方、「民団」は、全国43地方本部、207支部、133分団を持っていた。当時のことを覚えている民団の元老たちは、「民団」は地方本部が増えながら、団員が5万人から6万、7万人規模になったという。そのため、「朝連」はそれまでの実力行使だけでは、組織的にも望ましくないということで、教育や文化事業に力を入れていくようになったと言われる。
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茨城の「朝連」学校(1946年) |
「朝連」は特に、学校建設に力を入れた。各地の同胞は、「朝連」の共産化した実態を知らない同胞も多く、左右に関係なく、純粋に各地の民族学校建設に寄付する人が多かった。しかし結局は、各地の民族学校が「朝連」に乗っ取られることになった。支部の建物も同じだった。
婦人会中央本部の崔金粉顧問の父親も、当初は「朝連」に参加していたが、「民団」ができてから、民団に移って東京の深川分団長になった。
その頃から、「北はよくない。金日成は本物ではない」といった話を父親から聞いていた。
本国では、多くの北韓住民が共産暴政から脱出して南に来た。韓半島においての「脱北」の歴史の原点と言える。
崔顧問は、解放の年に女学校に入学した。卒業した頃に「朝連」系学校から教師として勧誘を受けた。教会などで韓国語を学んだため、子供たちに韓国語を教えてほしいとのことだった。
崔顧問は「何を言っていますか、朝連の赤の学校には行けません」と勧誘を断った。
崔顧問は、解放直後の東京・深川地域の同胞は、「民団」「朝連」を区別せず一緒に暮らし、「朝連」系学校の教員が不足したため、民団員の家庭の人にも勧誘がきたと回顧する。地域社会で「民団」と「朝連」の対立が激しくなったのは、6・25戦争の勃発が転機だったという。
「民団」「朝連」の物理的衝突
「民団50年史」によると、1949年時点での「民団」「建青」と「朝連」「民青」の物理的衝突事件は、東京目黒1件、兵庫・福岡各3件、岐阜・山口各4件、大阪・神奈川各2件、静岡・福島・和歌山・宮城・三重・千葉・群馬・大分各1件などとなっている。
その殆どは、「朝連」「民青」による、殺人、放火、暴行、リンチなどだった。当時を知る「民団」関係者によると、「朝連」側は「民団」団員宅に糞尿をかける汚い手口もテロの手段として広く使われたという。
その中でも、衝撃的だった事件は、1949年1月13日に「建青」兵庫委員長で初代兵庫民団団長だった玄孝燮氏が東京・上野の富士ホテル前で「民青」組織部長の張基栄、張仁洙、金明玉などにより狙撃され殺された事件が有名だ。