大韓民国への反逆 その連鎖を絶て(19)

反国家団体との関わりや、犯罪歴を隠した康宗憲
日付: 2014年06月25日 00時00分

 2012年に行われた韓国の総選挙で、康宗憲は統合進歩党の比例代表候補として登録された。
当時の肩書きはNPO法人「三千里鉄道顧問」のみだった。康宗憲が反国家団体である「韓統連」の祖国統一委員長や利敵団体である「汎民連海外本部」の共同事務局事務次長だったことが韓国社会に周知されていたら、候補登録そのものが不可能だったはずだ。
また、選挙公報には前科がないと書かれた。前科を隠す行為は選挙法違反だ。
康宗憲は再審で自らの無実を主張したが、韓国がまともな法治国家なら、彼は再審ではなく逮捕されるべきだった。康宗憲が反国家団体や利敵団体の核心幹部だったとき、その「韓統連」や「汎民連海外本部」と接触した韓国内の従北派や工作員たちは、国家保安法違反などで処罰されていたからだ。
左翼政権だった金大中と盧武鉉政権の時でさえも、韓統連や汎民連を通じて北側の指令を受けた工作員が摘発されれば、後に赦免・復権はしても、一応裁判にかけられていたのだ。
康宗憲は自分が1991年の春、東京にあった「汎民連海外本部」の事務局の次長という核心幹部に抜擢された経緯に対して、自叙伝でまったく触れていない。「海外本部」の議長だった尹伊桑とは以前から面識があったのか、同じ共同事務局次長になった朴勇とはどんな関係だったのか、大阪の韓国問題研究所と東京の「汎民連海外本部」事務局をどう往来したのか、事務局次長の給料はもらっていたのかなどは一切書かれていない。ただ、「汎民連」発足に対して詳しく紹介する様子から、康宗憲の役割が推測できる。
特に康宗憲の情勢分析などは、平壌の意図を正確に反映し、言葉使いや用語使いは、北の代弁人としての「汎民連海外本部」事務局次長らしい。例を見よう。
康宗憲は、南北基本合意書に対しては平壌の立場を細かく説明しながら、韓半島非核化宣言(康宗憲は「朝鮮半島非核化共同宣言」と表現)の内容に対しては言及せず、逆にすでに存在しない問題を取り上げる。
「朝鮮半島の核問題といえば、昨今は『北朝鮮の核開発』ですが、二〇年前は『在韓米軍の核兵器』が焦点でした」(自叙伝141ページ)。
そして、巧みな用語操作を駆使する。例えば、南北「単一チーム」を「統一チーム」にすり替えることだ。
「一九九一年四月、日本で開催された『第四一回世界卓球選手権大会』に統一チームを派遣し、女子団体では中国を破って優勝しています」(自叙伝141ページ)
康宗憲は盧泰愚大統領の「7・7宣言」には触れても、ソウル五輪の歴史的意味や影響には言及していない。彼は、韓国がソ連や中国と国交正常化したことに対し、北が米国や日本との関係改善に失敗したことを悔やしがる。そして北を必死に庇護する。
「韓国の統一運動団体が、ことさらに南北の平和共存と連邦制統一を主張するのは、朝鮮半島で再び戦争が起きることを避けるためです。ベトナム式の武力統一であれ、ドイツ式の吸収統一であれ、体制打破による統一の追求はその過程で甚大な被害を双方にもたらします。朝鮮半島において一方が他方の体制を否定し、その制圧を企図すれば必ず軍事衝突が起き戦争へと拡大します。かつて同族戦争を体験した朝鮮民族が学んだ血の教訓です。連邦制は『統一』の論理であるよりも、『共存』の論理といえます。南北間の格差が顕著であるにもかかわらず、いや、圧倒的な格差が生じてしまった故に、両体制の長期的な共存を保障することで、相互の不安を除去する必要があるのです」(自叙伝142ページ)
康宗憲は金日成が負うべき6・25戦争の責任を隠し、彼らの韓国転覆工作を「共存」と強弁しているのだ。(続く)


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