北韓に臨時政府が公式化
スターリンの指令で解放直後からソ連の傀儡政権を進めてきた北では、「北朝鮮臨時委員会」が1945年2月22日に姿をあらわした。
日本では「朝連」の組織化が進んで、1947年3月には、「民青」(在日本朝鮮民主青年同盟)が結成された。
スターリンの指令で平壌に構築された社会主義政権に危機感を感じた李承晩博士は、南韓に自由民主国家の樹立を目指した。しかし、これを南だけの「単独政府」による祖国の分断だという共産側の宣伝工作によって、「建青」に分裂が生じた。
政府樹立派は、洪賢基、金連斗、金琮斗、全萬洙、金容太、玄孝燮(後に「朝連」により暗殺される)、徐相夏など。南北協商派は、徐鍾実、李禧元、金光宣(坂本)だった。
「建青」内の対立が激化する中で、4月26日に財政対策として運用されてきた特配物資配分にかかわる対立問題で南北協商派の金光宣(坂本)が殺される「坂本事件」が起きた。
後にこの事件で背後は玄孝燮とされる。金連斗など4人は4年から8年間の刑を受けた。
内部対立が生んだこの事件に対して、軍人会の李奉男会長は、当時は支部が各地にできる過程で費用がかかったため、以前のように特配物資の配分ができなかった。
そこに坂本が東京の「建青」本部に来て配分を強く要求したのが原因だったという。李氏は「坂本は『建青』のために働き、『左翼系』とか『朝連系』といったものではなかった。『朝連』からも一目置かれるような存在だった」と回想する。
初代兵庫団長の玄孝燮
その「朝連」が一番恐れたのが玄孝燮だ。玄氏は「建青」兵庫委員長で初代兵庫民団団長だった。
「民団兵庫55年の歩み」によると、「坂本事件」では、玄委員長が最も行動力のある尼崎支部のメンバー20人を引き連れて上京し、事務所に向かわせたという。この「建青」兵庫と尼崎支部の行動部隊は「アリラン部隊」と呼ばれた。全国で「民団」や「建青」が結成される際、「朝連」からの妨害を排除するためにも活躍した。
「建青」が無用の混乱に陥っているときも、「朝連」は北に人民共和国が建てられるのを支持し支援していた。「朝連」は、48年4月10日の第14次中央委で朝鮮民主主義人民共和国臨時憲法草案を支持し決議する。
同年4月19日には、平壌開催の南北政党・社会団体代表者連席会議に「朝連」代表が参加した。
裏では、そういう工作をしながら「朝連」は、「南朝鮮単独選挙反対」の闘争を展開した。
同年5月10日、南韓だけで国連監視下で総選挙が実施され、8月15日には大韓民国政府が樹立する。国連は韓国政府を「韓半島における唯一合法政府」と承認する。また、「民団」は9月8日に韓国政府から「在日同胞の唯一の民主団体として承認する」と公認状を受けた。
韓国よりも先に憲法まで作っておいた北は同年8月25日に総選挙が行われ、9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」が宣布する。
この時になると、「民団」も全国のほとんどに地方本部が置かれる。そして、1949年に入って間もない1月13日、玄団長は、東京・上野の富士ホテル玄関前の路上で、車に乗ろうとしたところを「朝連」傘下の「民青」メンバーらによりピストルで撃たれて死亡した。
犯人は「民青」組織部長の張基栄、張仁洙、金明玉の3人だった。後に犯人たちは「『建青』と『民団』が、『朝連』の最高指導者である金天海の暗殺計画を立てていたので、先手を打って玄孝燮を暗殺した」と主張した。
玄団長の葬儀は、神戸市山手の本願寺神戸別院で執り行われた。神戸市始まって以来最大の葬儀だった。