【寄稿】体制と反体制 6月民主抗争 反体制の非暴力と体制の決断

経済発展と平和的民主化の並行実現 韓国政治の「民主的枠組み」が北との差を生む
日付: 2014年06月18日 00時00分

韓国現代史研究家・金一男

 本稿は、2014年5月21日に本紙に掲載された「体制と反体制 光州5・18」の続編であり、本来は一つの論考であったが、編集の都合上で分割掲載になったものです。本文に先立って前稿の結びを再掲し、読者の便宜にあてます。

◆独裁を腐敗する前に清算した信念と進取性
「韓国の民主化運動の歴史において、1980年5月27日のこの武装闘争は暗い影を落としている。15日の『ソウル回軍』に続くこの時点での『武装闘争』は、闘争手段に関する戦術的な是非においてはもちろんのこと、運動全体の内在的発展から生まれた必然的な行動だったとはとうてい言えないものであった。それは、この7年後の『6月民主抗争』の結果がそれを重ねて証明する。『5・18光州民主化運動』において、27日以降の出来事は、単に『無駄な犠牲』であったにとどまらず、韓国民主化運動全体の政治的発展を破壊する否定的な『反動』であった。それは、民主化運動の内在的な必然性によってもたらされたものではない。外部的な必要に基づき、韓国社会そのものの破壊を意図した軍事挑発行動であったと見るのが正しい」

〈6月民主抗争(1)〉
1987年初頭、任期最後の1年を迎えていた全斗煥政権は、「大統領直接選挙」を求める世論の圧力にさらされていた。
87年6月10日に行われた李韓烈氏の葬儀
 1月15日、ソウル大生の朴鍾哲君が警察の拷問により死亡する事件が発生し、それに対する憤激が世論をいっそう過熱させていた。
4月13日、政府は、改憲せずに現行憲法のまま選挙人団選挙を行うことを趣旨とする、いわゆる「4・13護憲措置」を発表。
5月27日、広範な野党勢力を結集し、学生たちの支持のもとに「民主憲法争取国民運動本部」が結成された。同国民運動本部は「4・13護憲措置の撤廃」、「大統領直接選挙」を掲げ、国民の支持を広げた。
6月10日、国民運動本部主催の大集会が開催され、反政府デモは全国に拡大。ソウル集会のデモ隊の一部は機動警察隊に追われて明洞聖堂に籠城する。この間、前日9日に延世大生の李韓烈君が催涙弾の直撃を受けて重体に陥る事件があり、抗議行動がさらに拡散。19日、20日と、全国各地で大規模なデモが展開された。
6月26日、国民運動本部主催の「平和大行進」には全国で少なくとも20万人以上がデモに参加した。全国で3500人あまりが連行されるとともに、一部警察署などに火炎瓶が投げ込まれる事態になった。
その2日後の6月29日、体制側で重大な動きが始まる。
学生らによる明洞聖堂籠城事件もあった

与党民正党の盧泰愚・代表委員が、「大統領直接選挙制への改憲」「金大中の赦免と復権」を骨子とする民主化措置の実行を表明した。いわゆる「6・29宣言」である。
盧泰愚代表に迫られた全斗煥大統領は7月1日、これを受け入れた。続いて7月には政治犯の赦免と復権が発表され、大統領直接選挙制改憲案が10月12日に国会を通過、同27日の国民投票で90%以上の圧倒的賛成を得て新憲法は確定した。
この第6共和国憲法は87年10月に公布された。
1987年12月、新憲法の下で大統領選挙が直接選挙として実施され、盧泰愚大統領が第13代大統領として当選した。
選挙そのものは保守派の勝利であったが、この時点で韓国の政治的民主主義は、制度的にも内容的にも十分な包容力と柔軟性を獲得し、質的に転換されたのである。韓国はその後も多くの課題に直面することになるが、すべての課題を制度圏内において平和的に解決することが可能な国家となった。
〈「6月民主抗争」(2)〉
この「6月民主抗争」の過程について、野党側に有利な外部的条件としては、翌1988年にソウルオリンピックを控え、体制側の弾圧手段が自制されたことがあげられる。また、レーガン米大統領が親書を通じて戒厳令に反対し、民主化の促進をうながしたことも効果をあげた。
主体的条件としては、第一に国民運動本部の運動が学生はもちろん商店主やサラリーマンを含む広範な支持を得て、政府を圧迫したことが挙げられる。
しかし何よりも、この運動の指導層が、意識的に平和的闘争の方針に徹したことが大きな意味を持っている。これは、途中で不毛な武装闘争に変質することを許してしまった、1980年の5・18光州事態に対する痛切な反省によるものであった。
反体制側による非暴力の貫徹は、広範な国民の支持を集め、また、体制側の妥協を引き出す最も大きな原動力であった。実際に、当時体制側であった「新軍部」勢力も、民主化の達成後、野党勢力とともに体制内勢力として政治の一翼を担っていくことになる。
北朝鮮と異なり、韓国ではいかなる時期においても最小限の市民的空間は残されていた。国民には信仰の自由とともに、基本的な身体の自由、移動の自由が保障されていた。権力に対する抵抗者は抑圧を受けても、北朝鮮のようにその場で銃殺されたり、その家族までが鉱山の政治犯強制収容所に奴隷的労働力として囚われたりするようなことはなかった。時に形式的であったにせよ、抵抗者に公開的な法的係争の手段が常に残されていたのである。
この最低限の民主的枠組みが、目覚ましい経済発展と共に、韓国における平和的民主化を同時並行的に可能にした基本条件だった。
絶対的権力は絶対的に腐敗する。平壤政権の内実がその好例である。また、絶対的権力は国家を疲弊させる。北朝鮮の総体的困窮がそれを示している。ただ民主主義だけが、国民的力量の真の結集と発揚を可能にする。
過去、建国間もない韓国の国家権力は、時代的制約のゆえに独裁化の期間を持ったが、それが絶対的腐敗に至る前に、民衆の抵抗と犠牲によって清算された。そして、報復の連鎖は起こらなかった。
その結果、権力は制限された期間内に自己の歴史的使命を有効に果たすことができたし、社会全体の政治的経済的発展との肯定的な結びつきを、将来にわたって確保することができた。国民一人ひとりの市民的権利を不可侵なものとみなす、基本的民主主義の制度的勝利であったといえる。
その勝利を可能にしたものは、体制権力の奴隷となることを拒む韓国国民の民主的信念であった。また、精神の自由と人格の独立のためには犠牲をいとわない、韓国国民の果敢な進取性と同胞愛であった。


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