大韓民国への反逆 その連鎖を絶て(18)

日本に戻った康宗憲が堂々と始めた対韓活動とは?
日付: 2014年06月18日 00時00分

 康宗憲は日本に戻ってから大韓民国に敵対する活動を隠すことなく始めた。この連載を通じて康が北側の工作員だったことはすでに見てきたとおりだが、彼は自分が政治犯だと主張する。つまり、康宗憲が政治犯と呼ばれるなら、康宗憲とその支援グループが「政治犯」と呼ぶ者も同じく北側の工作員・スパイとみなしていいはずだ。
康宗憲は14年ぶりに日本に戻ってきてから1週間も経たないうちに東京で開かれた「政治犯救援集会」で講演したという。康は自叙伝の中で、日本における「在日韓国人政治犯釈放運動」を3つに大別した。
(1)友人や教師が中心となった個別救援会(「〇〇君を救う会」など)、(2)日本人の市民団体や労組が中心の運動(「在日韓国人政治犯を支援する会全国会議」など)、(3)在日朝鮮人を中心に展開された運動(「在日韓国人政治犯を救援する家族・僑胞の会」など)だ。この中で、主に(2)と(3)が平壌や朝総連と緊密に連帯してきた反韓・従北勢力であることはいうまでもない。
康宗憲は(2)と(3)の団体が計画、共催する集会を優先して毎週各地で講演したという。自分が計画したものではなく、朝総連など従北・反韓団体の注文に応じて休みもなく講演に回ったわけだ。
この時期の康宗憲と従北・反韓勢力は、北韓の強制収容所のこと、特に北送僑胞の多くが収容所に送られ、あるいは失踪していることを知っていながら、日本社会に北韓の人権状況が知られるのを遮断するため、逆に韓国への攻撃に打って出たのだ。
康宗憲は、平壌を訪問して祖国平和統一委員会の許錟委員長と共同声明を出した文益煥牧師の釈放と国家保安法の撤廃を求める運動に、積極的に参加した。文益煥や康宗憲は、許錟との共同声明を民間次元で統一への道を切り開いたものだと自讃したが、労働党の対南事業担当秘書(許錟)と共謀した声明を、はたして「民間次元」と呼べるだろうか。
康宗憲はその夏、北海道から九州まで、「政治犯」救援のための「全国キャラバン」に参加し、50回以上講演したという。いったいこの集会を周到に指揮した「関係者」たちは誰だったのか。
ここで康宗憲は、いよいよ自分の正体を明らかにする。彼は自分を「在日韓国人政治犯」から「在日朝鮮人」という本来の姿に戻したといっていい。
「紆余曲折の果てに在日朝鮮人としての原点に立ち戻ったわけです。一人の在日朝鮮人として、民族の課題を解決する仕事に関わりたい、というのが率直な心情でした。朝鮮民族が当面する課題はさまざまですが、私は当時も今も、朝鮮半島に平和と統一をもたらすことが最大の課題だと考えています。(中略)朝鮮半島の情勢を綜合的に分析した資料集を刊行し、正確な情報を発信することで民族運動に寄与したいと考えたのです。(中略)在日韓国人学生の「一一・二二事件」(学園浸透スパイ団事件)を想起して、一九八九年一一月二二日、大阪市北区の小さなビルの一室で「韓国問題研究所」の開所式を行いました。日本の友人たちと、日本に戻ってから知り合いになった在日朝鮮人の青年たち数十人が、私の門出を祝ってくれました」(自叙伝133、134ページ)
康宗憲を物心両面で支えた主な存在は、反国家団体のメンバーたちだったのだ。研究所には彼らから講演の依頼が舞い込むようになり、通訳や翻訳もこなして事務所の経費に充当したそうだ。
ところが、康宗憲は獄中体験の講演は特別な場合を除き、引き受けないことにしたという。理由は、過去の体験を語るよりも、朝鮮半島の現状と民族の未来を展望することが、自分の仕事だと思ったからだという。
しかし、どう考えても、事務所の開所を11月22日に合わせたほどの執念をもった康宗憲が、工作船で平壌へ行って労働党員になったという「濡れ衣を着せられた」ことを解明すべき機会を避けたのはおかしい。解明できる自信がなかったためではなかろうか。
康宗憲は1991年4月、研究所の機関紙「韓国の声」を創刊し、毎号の巻頭で直接情勢分析を執筆した。民族団体の青年たちや友人たちからの寄稿もあったという。諸般の事情で刊行は不定期になったというが、その「韓国の声」に掲載された記事は、読んでみると説明が長すぎる上に要点が掴みづらいことがわかる。
ところで、せっかく創刊した「韓国の声」が不定期になった事情とは何だっただろうか。それは康宗憲が汎民連海外本部の共同事務局次長になったためではないかと思われる。(続く)


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