【寄稿】 義戦の一環としての伊藤博文射殺―安重根=テロリスト観の視野の狭さ

「テロリスト記念館」は撤回すべき
日付: 2014年06月11日 00時00分

東京大学名誉教授 小川 晴久

 去る3月29日、日本の菅官房長官はテレビ番組で、安重根記念館がハルピンに開設されたことに対し、不快感を示し、「テロリスト記念館だ」と述べて、韓国側の激憤を買った。
それにしても「テロリスト記念館」と言う指摘はひどすぎる。安重根について伊藤博文を暗殺したと言う一事しか知らぬ無知をさらけ出しただけでなく、安重根を愛国義士として慕っている南北朝鮮の人々を侮辱する、日本の国益を損なう指摘であるからである。
私は3年前にソウルで購入した『安重根文集』〈韓国独立運動史資料叢書第28集、独立記念館発行〉を再読してみた。同じ年日本で出た『図録・評伝安重根』(統一日報社編)も。
父は開化派で基督者一家、勉強家の安重根        
安重根はわずか32歳の生涯であるが、その一生を見るとその認識は広く世界に開かれていた。年譜によれば、父・安泰勲は開化派が日本に送った70名の留学生の一人である。金玉均らの甲申政変の失敗で、働き場を奪われる悲運に遇うが、後に天主教(カトリック)の信者になる。安重根も19歳(1897年)の時信者になり、26歳(1904年)まで布教活動に挺身する。フランス語の勉強もする。アメリカの独立の歴史(特にワシントンを尊敬)やポーランドの悲劇の歴史なども勉強している。これらの教養は後に旅順監獄で書いた彼の作品の中で披露されている。
日露戦争後日本の評価一変 
日本が日露戦争を始める時、「東洋の大義を挙げ、東洋平和の維持と大韓独立の鞏固との意を以て世界に宣言したる」ことを、安重根は高く評価していた。しかし1905年11月、日本が韓国を保護国にするや否や、安重根の日本評価は一変する。自伝で次のように言う。
「今日本は其大義を守らず。野心的侵略を恣行す。此(これ)都(すべ)て日本大政治家伊藤の政略にして、先に勒約(ろくやく。条約のこと)を定め、次に有志党を滅し、後に疆土を呑み、現世国を滅して法を新にせり。若(も)し速に之を図らずんば、禍愈大ならん。豈肯て手を束ねて策なく、坐ながら以て死を待たんや。」と。
義兵の参謀中将になる   
1907年8月1日、丁未七条約が締結され、韓国軍隊が解散させられると、安重根は間島、沿海州地域に脱出する。威海衛(ウラジオストック)にて、翌1908年、国外義兵部隊を組織し、国内侵攻を企て、自分は参謀中将の任に就いた。7月国内に入り、咸鏡北道慶興付近で戦果を挙げ、日本人兵士や日本人商人らを生け捕りにした。彼らに反省をさせ、万国公法に基づき捕虜として扱い、武器まで持たせて釈放したりした。一時、300名までの部隊になるが、捕虜釈放に反発した仲間たちは離れて行き、日本軍から奇襲攻撃を受けて、会寧霊山付近で4~5時間の大戦闘となり、敗退してしまった。僅か2名で命からがら国境を脱出し、翌1909年3月頃、煙秋(クラスキノ)で12名で断指同盟を結成する。安重根の手形で薬指が第一関節で断たれているのはこの時の誓いである。そして遂に10月26日ハルピン駅頭での伊藤の射殺となる。
伊藤射殺は義兵闘争の一環 
その朝安重根はハルピン駅頭に一人でいた。仲間の禹徳淳、曹道先は隣の寛城子駅で同じ任務に当らせた。9時半頃、伊藤は安重根の弾に倒れるのであるが、安重根は狩猟の名手であり、射撃力は抜群であった。彼は捕虜は殺してはならないという万国公法に則って捕虜の扱いを受けるべきだと強く主張したが、日本側はテロリストとして刑事裁判に付し、1910年3月26日処刑した。8月、日本は韓国を併合した。
菅官房長官が安重根をテロリストとしか見なかったのは、叙上の全ての事実に無知であったと言わざるを得ない。テロリスト記念館という言辞は撤回すべきである。


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