〈6・15までの平壤政権の行動〉
2000年に「南北和解」をうたった「6・15南北共同宣言」の今日的意味を考えるためには、それ以前とそれ以降に平壤政権が取った行動を振り返ってみる必要がある。
1950年6月25日、平壌政権は「朝鮮戦争」を引き起こした。彼らのいう「祖国解放戦争」は、200万人を超す犠牲者を生んだ。国土は灰燼に帰し、わが同胞は復興のために筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた。68年1月21日、平壤政権は数十名の武装ゲリラを南派し、韓国大統領府を襲撃しようとした。この「1・21ゲリラ事件」で南派された北の若者は、投降した1人を除いてほぼ全員が命を落とした。
83年10月8日、平壤政権は韓国の大統領と閣僚を殺害する目的で、偵察局の工作部隊にビルマのアウンサン廟を爆破させた。21人が爆死し、多数の負傷者を出した。87年11月29日には工作員に命じて大韓航空機に爆薬をしかけ、飛行中に爆破した。犠牲となった115人の大半は、中近東からの出稼ぎから戻る韓国人労働者であった。
〈南侵と破壊活動を生んだ2つの背景〉
スパイ工作員の持続的な南派活動や後述する核兵器開発を除いても、上記の整理から平壤政権の対南破壊活動が一過性のものではないと理解されるであろう。その背景とは、第一に「全民族の唯一思想化(主体思想化)」という彼らのスローガンであった。要するに、民族統一の美名のもと、武力をもってでも北の権力体制を強引に南に拡張しようとしてきたのだ。この暴力的スローガンは、現在も彼らの「憲法」と労働党規約に明示されており、平壤政権の攻撃的体質に今も変化はないとみるべきである。
「6・25動乱」後も、平壤政権は「ソウルを火の海にする」など威嚇的言辞をこととし、韓国の特定言論機関を「攻撃目標」として指定する卑劣な脅迫さえ行った。2010年3月26日には「天安艦爆沈事件」を引き起こし、46人の韓国の若者の命を奪った。10年11月23日には、「延坪島砲撃」で4人の生命を奪った。
一方、韓国側はこの間一貫して「専守防衛」につとめ、北の領土を侵犯したことは一度もない。
平壤政権の攻撃的対外政策は、特にその後半においては「内部矛盾の転嫁」を目的とした。これが、平壤政権による破壊活動が今日まで続く第2の背景である。
宣伝において「常勝」をうたう朝鮮労働党の歴史は、実際は内政においても外交においても失敗の連続であった。国際的には国連の制裁対象となって孤立し、中国からも見放されようとしている。現在はロシアにわたりをつけて中国と天秤にかけようとしているが、東西冷戦下に中ソ間で二股をかけて大量援助を引き出していた90年までの情勢とは異なる。今は、中国からはもちろんロシアからも多くを期待できる状況ではない。中国にとっても、単独で平壤政権を支える経済的・政治的負担は限界に達している。
平壤政権は、ことに内政において完全に破たんした。対外貿易のほぼ90%を中国に頼りつつ、毎年10億ドルの貿易赤字を出し続けている。この毎年の赤字額は、北朝鮮の財政規模からして小さな数字ではない。また、輸出の主力である鉱物資源も無尽蔵ではない。
北朝鮮は、貧困のまま放置された地方からの搾取によって、平壤だけをかろうじて維持しているにすぎない。このため、随時に対外的緊張を作り出して外部からの「侵略策動」に対する恐怖をあおって住民の不満をそらし、全体主義体制による統制強化の口実としてきたのである。
〈核保有国という平壤政権の夢〉
80年代からの核兵器開発の動機も、内政の破たんに原因がある。「最終破壊兵器」を手にすることで、その威嚇効果によって破たんした政権の延命をはかろうとしてきたのであった。
しかし、平壤政権による国内統制強化と対外強硬策は、ますます国政を疲弊させ、国際的な孤立を決定づけることとなった。暴力的な政権に「核保有国の地位」を与えることは、世界の核管理体制の崩壊を意味し、人類にとって自殺行為にひとしい。これが、中国やロシアをもふくめ、世界共通の認識であろう。
国家的崩壊状態と国際的孤立状態から脱するチャンスが、彼らにまったくなかったわけではない。
核開発という行動には、2つの側面があった。一つは、実際に核兵器を実戦配備して国防力を決定的に高めること。いま一つは、開発行為そのものの展示効果によって諸外国から相当の援助を取りつけること。後者の場合、「核開発放棄」の決断が前提となるのはいうまでもない。
ここで「北核問題」をもう一度概観してみる。米国は91年、韓国に配備していた戦術核兵器を撤収した。これと引き換えに、同年末、南北は「非核化共同宣言」に署名。また、南北の平和的共存を誓う「南北基本合意書」にも署名した。
にもかかわらず、平壤政権はひそかに核兵器の開発を進めるという背信的行動を続けた。93年には平壤政権の核兵器開発が国際問題となり、この第1次「北核危機」は、94年の「米朝枠組み合意」を経て95年の「朝鮮半島エネルギー開発機構」(KEDO)の発足につながる。
こうして国際社会による対北エネルギー支援の体制ができあがるかにみえた。事態がそのまま進めば、核開発行動の展示効果によって得られる平壤政権の利益は大きなものであっただろう。
しかし、平壤政権はそれに満足しなかった。過大な要求を関連諸国につきつけて交渉を難航させる一方、ひそかに核兵器開発を継続した。単なる威嚇的な展示効果への期待ではなく、実戦配備をめざしながら「もらえるものはもらう」という二面作戦に出たのである。一見「大胆で巧みな」交渉にも見えるこの二股戦術は、冷戦下で中ソの対立を支援取り付けに利用する過程で身に着けた交渉技術だった。
重要なことは、この時点で平壤政権は内政運営に対する自信を失っていたことだ。正常な国家運営に期待できない以上、核保有のほかに政権を維持する道はないと彼らが考えても不思議はない。
03年1月、平壤政権は核拡散防止条約からの脱退を宣言したのち、ずるずると交渉を引き伸ばしながら、同年7月に合意された6者協議を通じて、関連諸国からの援助を手に入れた。そのうえで06年10月9日に「核実験の成功」を公表する。前年9月19日に6者協議の声明で「核放棄に合意」を発表した1年後のことである。
名目的には、米国の圧力によって「バンコ・デルタ・アジア」の預金が凍結されたことをこの背信的行動の理由として挙げている。しかし、事態の経過は米国側の懸念が的を射ていたことを示していた。何の準備もなしにわずか1年で「核実験」ができるはずはないからだ。
07年2月に6者協議は再開された。しかし、平壤政権の要求は合意案を示した中国も驚く法外なものだった。「核廃棄」の見返りとして200万キロワットの電力と200万トンの重油を要求したのである。この間も、二面戦術による核開発は続いていた。初めから「食い逃げ」を計画していたわけだ。
07年2月13日、6者協議の「共同声明」が発表された。60日以内の核施設封印と国際原子力機関の査察受け入れを条件に、拉致問題をかかえた日本を除く5カ国から、北が重油5万トン、計25万トン相当の援助を受け取るというものだった。
援助の大半が実行に移された後の09年4月5日、平壤政権は「人工衛星」と称して弾道ミサイル実験を行い、5月25日には2度目の「核実験」を行う。さらに13年2月12日には、3度目の「核実験」を行い、「小型化と爆発力の強化に成功」と発表した。