大韓民国への反逆 その連鎖を絶て(16)

康宗憲自叙伝から読みとれる平壌の関心事
日付: 2014年06月04日 00時00分

 康宗憲の獄中記には、彼自身の服役状況とは関係のない時局分析などが延々と続く。まるで自分が獄中で時局動向の報告を受けていたかのようだ。獄中記の80年代の時局分析に関する記述は、非常に興味深い点を示唆している。
康宗憲は、ソウル大学総学生会の傘下に「祖国の平和と自主的統一を推進する特別委員会」が設置されたこと、「民主統一民衆運動連合」が「民主化と統一は表裏一体の課題」という宣言文を発表したこと、「カトリック正義具現全国司祭団」が声明文を発表して反政府運動が全国に拡散したことなど、さまざまな団体名を登場させている。これこそ康宗憲、いや平壌が何に関心を持ち、誰と連帯しようとしたのかを物語っている。
康宗憲は、矯導所に新しく入所した学生運動家から聞いた話として、平壌放送を聴いて主体思想の学習をする学生運動のグループもあることを紹介。その後、次のように続けた。
「(自分は)医科大学の『社医研』で苦心しながら社会科学を学んだものの、当時の内容や水準は極めて初歩的なものでした」(自叙伝116ページ)
これは思わず漏れた本音だろう。
康宗憲はソウル五輪後の88年12月に仮釈放されたが、当時は「民主化」の雰囲気を前面に出した金泳三氏が盧泰愚大統領を圧迫していた。そのせいか、矯導所の矯導官までが日和見主義的になり、国家保安法に違反した者と内通するようになっていた。その場面も自叙伝に書かれている。
「読書にふけっていると、一〇月に”貴重な”情報を知らせてくれた看守がやってきました。彼は一階級あがり、部長に昇進していました。『康さん、今度は間違いない。明日釈放だ。法務部から通知書が来た!』」(自叙伝118ページ)
「仮釈放だったので、『出所後は国法を順守する』といった趣旨の書類に署名しました。これまで、一体どれほどの調書に署名したことでしょう。もう、これが最後だ。そう思ってしっかりと書きました」(自叙伝119ページ)
康宗憲はまったく順守する気のない「転向書」に署名した。自叙伝の中で繰り返し「非転向長期囚」たちが信念を貫いたと称えていたのに…。
康宗憲の自叙伝は欺瞞に満ちた平壌の宣伝物といえる。既述のとおり、彼は工作船で北へ行ったという嫌疑に捏造だと反論したが、自叙伝では一言も弁明していない。
康宗憲は自ら自分が北の工作員であることを認めた(本連載の第8回など参照)。再審法廷でも作曲などできないと主張したが、彼は獄中でも少なくとも2曲を作曲した。その1曲「クナリオンだ」(その日が来る)は堂々と自叙伝の最後(120ページ)に載っている。
康宗憲は88年12月21日、大邱矯導所を出た、そして彼は、遵法誓約書(転向誓約)をただの紙切れにする。翌年の4月、日本に「凱旋」したのだ。なぜ「凱旋」なのかというと、彼の位が上がったからだ。
康宗憲は日本に戻り、金日成が組織化を直接指示したといわれる「汎民連」(祖国統一汎民族連合)の海外本部共同事務局次長という極めて重要なポストに就く。彼は、韓統連の祖国統一委員長にもなる。
「汎民連海外本部」の資金はどこから調達されているのか、公開されたことはない。「汎民連南側本部」は、海外本部から指令を受けて活動結果を報告したことにより、左翼政権時でさえ韓国の法廷で裁かれた。康宗憲は、この利敵団体や反国家団体の核心幹部として、韓国内外の従北勢力を糾合する任務を遂行する。
康宗憲は金大中政権になってからもっと大胆になり、林東源、李在禎など統一部長官歴任者などとつながる。康宗憲の「平壌の代理人」としての公開活動を、今後は検証していくとする。(続く)


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