在日の従北との闘争史~民団結成から韓国戦争勃発まで~④

地方同胞の孤立状況を利用した「朝連」
日付: 2014年05月28日 00時00分

地方の在日同胞の状況
民団が「朝連」より1年遅れて発足する経緯はすでに述べたが、地方の組織化も、「朝練」が結成3カ月後の翌年の1946年1月には全国47地方本部を組織したのに比べて、民団は3年以上の時間がかかって1950年に入って地方の組織化が終わった。
解放直後の在日同胞
 解放直後、栃木県で民族運動に参加した辛容祥元民団中央団長((現民団中央常任顧問)は「『朝連』が左翼に乗っ取られたとはいえ、解放直後から3カ月で全国組織ができた。当時の在日の勢いはすごいと思った」と振り返る。
東京など大都会では、日本共産党の前衛隊と化した「朝連」に反対して「建青」「建同」、そして「民団」が結成された。一方、解放の喜びに満ちていた地方の同胞たちには、「朝連」は「祖国の政府組織」のような存在に映った。「朝連」が共産主義者たちに乗っ取られている事情は誰も知る由もなかった。
地方には、植民地時代に渡日以来、貧困と差別の中で苦労してきた同胞がほとんどだった。「朝連」は共産革命という狙いを隠し、帝国主義時代の日本非難や祖国の独立、差別克服などを前面に出して、在日同胞の団結を強調した。日本社会から孤立した生活を強いられてきた同胞の状況を巧みに利用した。
「民団」と「朝連」の機関紙発行
「朝連」は結成と同時に国語講習所と出版活動に取り組んだ。朝鮮人共産主義者たちは、解放前から在日朝鮮人たちの組織化を目標として新聞発行を推進してきた前歴がある。当初、「朝連」の機関紙は「朝連会報」で、その後「朝連時報」に改題し、1947年8月15日からは「朝連中央時報」と変わった。
だが、平壌の暴圧体制に追従する現在の朝総連機関紙「朝鮮新報」は、1945年10月10日創刊の「民衆新聞」からの流れで、当時は「朝連」の機関紙でもなかったが、社長は「朝連」最高顧問の金天海だった。
一方で民団は結成4カ月後の1947年2月21日に機関紙「民団新聞」を発行した。
当時「朝連」が組織化を進められた手段の一つが機関紙だった。同胞たちとの通信手段として新聞機関紙の役割は極めて重要だった。そして識字率の低かった同胞たちのため国語講習所と学校の重要性にいち早く着目したのが「朝連」だった。
「民団」も機関紙を発行していたが、「朝連」とは組織の実態が違ったため、機関紙の普及配達の段階で差が出た。
辛顧問によれば、「民団」は、全国的に地方本部と支部ができた後、中央本部から機関紙を地方本部に送っても、地方本部から支部や同胞家庭には届かなかったという。それは地方本部や支部はできたものの、看板だけで団員が少なかったためだった。少ない団員も、生活に追われていた。
一方で「朝連」の場合は、専従活動家を多く確保し、彼らが同胞の家庭に機関紙を配って歩いた。
また、「朝連」は結婚式や葬式など、何かがあると同胞宅を訪ねた。長い間日本社会から孤立してきた同胞は、「孤独」な生活から脱するために「朝連」に残った人たちも少なくなかった。
辛顧問は1994年に民団中央団長になって全団員の家庭に機関紙「民団新聞」を送るようにした。辛氏は「その時ようやく、民団の機関紙が機関紙としての役割を果たすようになった」と話した。それは、解放直後の組織化の遅れの教訓を活かしたものだった。


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