「民団」地方組織拡大
1946年12月の李承晩・朴烈会談以降、GHQの友好的配慮によって「民団」の組織拡大が着実に進んだ。
「解放後在日朝鮮人運動史」によると、1946年10月の「民団」が結成された時点では、「建青」が12地方本部と若干の地方支部、「建同」は5地方本部しかなかった。「民団」は、両方を合わせても中央本部と13地方本部程度だった。
それが、1949年4月には39地方本部と155支部、1950年11月には47地方本部と393支部に組織が拡大された。この頃には全国を網羅する組織になったといえる。
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民団結成前の栃木同胞 |
李奉男軍人会会長は、「民団」結成当時の「団員」は1万人~2万人程度だったと覚えている。
そのうち、「建同」は5000人、「建青」は15000人ぐらいで、30歳未満の青年たちだった。
まともな仕事もなく、土木工事などで毎日の暮らしを立てていたが、イデオロギー的に反共だったため、「朝連」とは一緒になれない若者たちだった。李・朴会談以降、GHQの配慮で、活動資金を調達できるようになった「民団」と「建青」は、その資金を地方に回し、組織建設に努めた。神奈川や千葉、西東京、兵庫、栃木、山梨、長野などに地方組織ができるようになる。各地の「建同」や「建青」の支部が本部に昇格した。
「建青」のメンバーらは、地方に本部や支部をつくるために出かけるときは、英語で書かれた「建青」の腕章をつけ、GHQは汽車に「建青」メンバーを無料で乗せてくれた。都内でも、山の手線とは別にあった米軍専用の車両が利用できた。
ただ、各地に組織化が進んでも、団員が増えるわけではなかった。
当時の事情は、「民団」の本部や支部ができるたびに、「朝連」自治隊の攻撃によって潰された。李氏は「作ったら潰され、作り直すといったのが、繰り返しだった」と振り返る。
「栃木民団」結成
栃木県で「民団」結成に貢献した辛容祥元民団中央団長(現民団中央常任顧問)は「『建青』が『民団』結成の種だった。若い人たちには新国家建設といった理想があった」と振り返る。
「栃木民団の歩み」によると、栃木民団は1947年3月1日に結成され、宇都宮市旭町に地方本部事務所を設けた。民団の創設準備委員だった孫戴錫氏が私財を投じた。初代団長は後に、朴烈団長などとともに大韓民国国会における在日同胞代表6人の1人にもなった李鳳儀氏だった。
辛氏は、2代目の「建青」委員長になった。「建青」の日常活動は、「朝連」による共産主義の宣伝活動などに反対し、「民団」組織のための寄付集めにまわったりした。
辛氏によると、初代団長の李鳳儀は、民団結成前は、宇都宮市の北の氏家で、漬物屋の商売をしながら1人で「建同」の看板を背負っていた。辛氏は「今に思うと、先見の明があった方だった」と話す。
栃木民団の結成も「朝連」の妨害により2回目で成功した。1回目の結成大会は、200人の同胞が参加したが、議事進行中に「朝連」自治隊30~40人が襲って議長席を占拠したため不発に終わった。
2回目の結成大会でも、「朝連」自治隊が襲撃してきたが、事前準備で対抗して無事に成功した。この時は、先に「民団」西東京本部からも応援が駆けつけてくれた。辛氏は「その当時の『朝連』は暴力団と同じだった。そのためにはこちらも力で対抗するしかなかった」と話した。