李承晩と朴烈会談
後に初代韓国大統領になる李承晩博士は1946年12月10日午前11時、東京帝国ホテルで民団中央初代団長の朴烈氏と会談した。「婦人会東京半世紀史」によると、両者は本国情勢や左右合作問題、海外同胞対策などについて談話も発表した。
李博士は海外同胞対策と関連して、「非常に憂慮しているが、政府が樹立されるまでは、何か具体策を講じられない」ということにとどまった。
李博士はマッカーサー司令官から在日同胞の動向や意向の把握も依頼されたようだった。朴団長は、在日同胞の法的地位および待遇の改善、生活権の擁護、韓国人帰国輸送荷物制限の撤廃などを要請した。
「朝連」自治隊に対抗して作られた「建青」建設隊にいた李奉男氏は、民団結成後から朴団長らを警護していた。李承晩・朴烈会談時も、ホテル周辺でMPなどと一緒に警備を担当した。
当時、日本の警察は武装解除され、こん棒さえも持っていない時代だった。「建青」メンバーの李氏などは、「朝連」からの防衛のためにポケットの中にピストルを隠していた。
この時期のGHQ経済局は、日本の軍閥や財閥を解体することを目的に日本共産党などの左翼を支援していた。日本共産党の統制下にあった「朝連」は、そこから流れる活動資金で組織を強化していた。
日本共産党下の「朝連」
民団中央団長を歴任し、現在常任顧問の辛容祥氏は、栃木県内で解放を迎えた。解放直後は、栃木県の「朝連」に参加していた。「建青」の地方組織がなかったためだった。
辛氏によれば、「朝連」最高顧問で日本共産党中央委員でもあった金天海が、地方巡回で「朝連」の栃木本部を訪れたが、その時辛が「朝連」事務所で日本の大手新聞を取って読んでいたら、金天海は「日本の商業紙ではなく、共産党発行の『赤旗』新聞を読みなさい」と指示したという。
地方の在日同胞たちは、解放された喜びで「朝連」に参加している人が多かった。共産主義を理解する人はほとんどいなかったが、「朝連」の指導部は、共産党による組織化を進めていた。
共産党から「朝連」への資金の流れを遮断
しかし、来日した李博士はマッカーサー司令官に会い、在日同胞と「民団」の苦しい状況を訴えた。これをきっかけにして、GHQによる日本共産党への援助がスットプし、「朝連」への資金の流れも止まった。
李氏の回顧によれば、李・朴会談の後、GHQは「民団」と「建青」を積極的に支援した。
GHQは翌1947年春頃から「民団」「建青」に対して秘密裏にビール券を無料で配った。当時は統制経済下でビールやガソリンなどは自由に買うことができなかった。
「建青」メンバーらは、日本の財務局の窓口でビール券を受け取り、新橋や有楽町などの飲食店で券を売ってお金に換えて活動資金にした。
そして、その活動資金は、各地に回され、地方本部や支部の組織化や会館建設などに使われた。