大韓民国への反逆 その連鎖を絶て(11)

「密入北」容疑への反論がない不思議
日付: 2014年04月23日 00時00分

 康宗憲は自叙伝で逮捕される前、「問題になりそうな書類やパンフレット、住所録などは処分」したという。康宗憲が処分したものには、彼が休みを利用して日本から持ってきた社会主義(共産主義)思想に関する資料などもあったのだろうか。
康宗憲は逮捕された後、50日間の取り調べを受けた状況を、3ページにわたって記録している。その中で彼は、原始的な水による拷問を受けたことも告白している。決して拷問を肯定するわけではないが、拷問を受けたということと、彼が北韓工作員だったかどうかは別問題だ。
彼は密入北の嫌疑で逮捕された。それがどのように「捏造」されたかについては、もっとも重要なポイントの一つであるにもかかわらず、自叙伝では全く触れられていない。

「高校の先輩や同僚に朝鮮総連の関係者がいました。夏休みに日本に戻れば、会っていろんな話をしたのは事実です。民族問題に関心のある若者が出会うのだから、当然ながら、政治問題も論じたし学生運動が話題にもなりました。ときには本を借りて読みましたが、それらはすべて、同胞青年としての人間的な親交でした」(自叙伝60ページ)

康宗憲は非常な記憶力で、ソウル拘置所ですごした寒い冬と空腹、そして法廷のことを5ページ以上にわたって記述している。
彼が韓国の刑務所で経験した寒さと空腹は、北韓では「敵対階層」に分類された住民が日常的に経験していることだ。拘置所での寒さに言及するなら、北の地で普通の人々が経験している寒さと空腹について憐憫の情はわかないのだろうか。彼が日本に戻って、汎民連海外本部事務局次長として訪北したとき、北韓では300万人が餓死していたのだ。

「母国留学生としての立場と行動が、結果として国内の学生運動に大きな被害を与えたことを苦い悔恨で噛みしめていました。今になって思うと、第一審でなぜ果敢に法廷闘争を展開しなかったのか、忸怩たる思いがあります。しかし、国家権力に屈服してしまったという敗北主義に陥ると、なかなか自分を立て直すことができません。一度失った戦意を取り戻すのは容易なことではありませんでした」(自叙伝69ページ)

康宗憲はなぜ一審法廷で積極的に反論しなかったのか。敗北主義に陥ったからではなく、事実だったため反論できなかったのではないか。康宗憲の自叙伝を何度読み返してみても、彼は本国留学の前に、すでに「革命戦士」だったとしか思えない。彼が遺言として獄中で作詞作曲した「クナリオンダ」(その日が来る)を見ても明確だ。
康宗憲は韓国の行刑制度に日本帝国主義の遺物が多く残っており、日本式用語が多いと批判するが、彼が叫び続けてきた「自由」や「民主主義」などの言葉もすべて日本で翻訳され、作られたことを知らなかったのか。「朝鮮民主主義人民共和国」も、「朝鮮」以外は全部日本から”輸入”したものだ。
彼が死刑判決を受けて拘置所の雑居房で服役を記録した部分でも、当時の康宗憲はもちろん、自叙伝を出した2010年秋の時点の思想が確認できる。

「最初の衝撃は、人々の激しい反共意識でした。韓国社会における反共の核心は、北朝鮮への不信と敵意です。同室の人々にとって北朝鮮は、「朝鮮戦争で南に侵略し膨大な死傷者を出した政権、その後も武装ゲリラやスパイを送り続ける危険な集団、一党独裁と個人崇拝の下で自由も人権もない貧しい社会」なのです。学校教育とメディアを通じて形成された不信と敵意が、同じ民族だという同胞意識を圧倒していました」(自叙伝80ページ)

拘置所の収容者の対北認識でたった一つの間違いも見られない。一党独裁、個人崇拝で、自由も人権もない貧しい国でないといえるのは、労働党員だけではなかろうか。(続く)


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