大韓民国への反逆 その連鎖を絶て(10)

文世光事件には言及していない康宗憲の自叙伝
日付: 2014年04月16日 00時00分

 康宗憲がソウル大学医科大学に留学中に参加したという「民主化運動」の実体はどんなものだったか。自叙伝はそれに対しても一部をかなり詳細に記録している。1973年4月の全国一斉デモ決行の準備状況を見てみよう。

当日にだれがビラを撒くのか、集会での役割分担をどうするのか、逮捕者が出たらどう対処するのか……。毎晩、遅くまで討議を重ねました。心配だったのは全国一斉デモが可能なのか、事前に情報が漏れて当局は充分な対策を立てているのではないか、という点でした。(自叙伝43ページ)

ここまでの企画や準備を見れば、これは単純な示威ではないことがわかる。政権転覆を目標にしていたのだ。

4月3日の午前10時、医科大学の講堂で集会があり、『全国民主青年学生連盟(民青学連)』名義のビラ「民衆・民族・民主宣言」が配布されました。宣言文を読む「社医研」上級生の顔は、緊張と興奮ですっかり上気していました。(同43ページ)。

結局、この全国一斉デモは失敗し、首謀者たちは逮捕されるが、その後の組織再建などで康宗憲は「確信犯」として活動に積極的に臨む。自叙伝の該当箇所を引用する。

そこでは、民青学連を総括して、全国一斉デモの計画は失敗したが、組織的な学生運動と民衆の生存権闘争を掲げたことは、高く評価されるべきだとの思いを共有しました。そして、社会科学の理論学習を続け、社医研を再建しようと確認しあったのです。また、夏休みには日本に帰宅する予定だった私に、海外での韓国学生運動に関する分析と評価、国内に紹介されていない朝鮮半島情勢に関する資料などを、幅広く集めてほしいとの要請がありました。可能なら、社会主義思想の適切な教材を何冊か持ち帰ってほしいともいわれました。
当時、日本に帰るたびに、参考になりそうな知識や情報を吸収してサークルでの学習に活用していました。ただ、税関での検閲を考えると、マルクス・レーニン主義の原典や著名な解説書を持ち帰るのは不可能です。当たり障りのない解説書を批判的に読み解くことで、社会主義思想の概略を把握するしかありませんでした。(以上、自叙伝45、46ページ)

康宗憲は、「日本に帰るたびに、(マルクス・レーニン主義など社会主義思想に)参考になりそうな知識や情報を吸収してサークルでの学習に活用した」と告白している。彼は誰から、どこからそんな知識や情報を得たのか。康宗憲はなぜ、北の工作船で平壌へ行った嫌疑に対しては何も説明しないのか。もっとも、康宗憲はソウル大学留学中に夏休みなどで帰宅したときのことは一切書いていない。そして、税関の検閲がなかったら何を持ち込みたかったのか。
康宗憲が「社医研」の再建や「民青学連」に集中し、そして韓半島情勢を集めて分析していたとき、韓半島には途方もない大事件が起きていた。文世光による朴正熙大統領暗殺未遂および大統領夫人殺害事件だった。
ところが、康宗憲の自叙伝は、この世紀の大事件について一言も触れていない。彼らが打倒しようとした朴正熙大統領への暗殺未遂事件なのに。文世光は康宗憲と年も同じ在日の青年で、しかも同じ大阪市生野区に住んでいた。なぜ、一言の感想もないのか。
康宗憲には、国交正常化から10年も経たなかった韓日関係を破局に追い込んだ文世光事件などは、まるでなかったかのようだ。彼と「社医研」メンバーらは下宿を転々としながら討議を重ね、ときには行楽を装って野外で会合を開くなどして、「拘束学生の釈放と維新憲法の撤廃」を要求する学内集会や同盟休学を成功させた。
康宗憲は「人民革命党事件」に執着し、自殺したソウル大学農学部学生の遺書などを詳細に紹介しながら、ベトナムの赤化統一のため韓国社会の安保意識が高まったことも悔やんでいる。康宗憲の認識と主張は、この点で平壌と正確に一致するものだ。
康宗憲の自叙伝にようやく他の在日韓国人留学生の話が出る。1975年11月の「学園浸透スパイ団事件」だ。

楽観的に考えてみました。(中略)しかし、その一方では学園浸透スパイ団事件という新聞の見出しが、しきりに頭をよぎるのでした。とりあえず身辺整理はしておこうと思い、問題になりそうな書類やパンフレット、住所録などは処分しました」(自叙伝57、58ページ)
(続く)


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