大韓民国への反逆 その連鎖を絶て(9)

政治的意識を持って留学した康宗憲
日付: 2014年04月09日 00時00分

 康宗憲だけではなく、従北左派は事実を平然と歪曲・捏造する。なぜなら彼らは事実よりも絶対化された「信念」を優先させ重視するからだ。 信念が形成される過程は一様ではないだろうが、ほとんどの場合において理念化学習の過程を経る。康宗憲の場合は、彼の自叙伝で、その過程の一部を見ることができる。 康宗憲が社会主義に目覚めたのは高校の時であるようだ。彼は当時の自分の考えを詳細に記録している。19歳の康宗憲は、民族と民族性をどのように定義すればいいのかについて、そしてそういう認識がどう韓国留学につながったかについて、その経過をかなり具体的に記録している。◆ 当時の私は、民族を構成する要素として次の三点を考えていました。一つは言語であり、次に歴史と文化。もう一つ、最も重視したのは民衆という観点とその生き方です。『民衆』とは『国民』とは違うニュアンスで使われます。大統領や高位官僚、一流企業の経営者たちも国民のなかには入りますが、民衆とは呼びません。『民衆』ということばには、現在の体制と権力から苦痛や抑圧を受けている人々、といった意味が込められています。 (中略)民衆がどのように暮らしているのか。何に苦しみ、何を望み、どんな社会を夢見ているのか。そして、新しい社会を築くために、どのような運動とたたかいを続けているのか。これらのことは、民衆のなかに身を置き、ともに生活してこそ初めて体感できるでしょう。民族性を構成する三要素と自ら考えていたもののうち、どれ一つも共有できていない私は、一つ一つ、これから身につけていくしかありません。そのための最も適切で有効な方法は、祖国で学ぶことだと思ったのです。私と同じ世代の若者たちと膝を交え、いろいろな話をしてみたい。(自叙伝21、22ページ)◆ 康宗憲は1970年11月13日の「全泰壱焼身自殺事件」が韓国留学の決定的動機だったと書いているが、彼が留学目的でソウルに着いたのは1971年4月5日、つまり、事件から4カ月半後のことだ。彼が韓国『民衆』との一体感を共有するための留学準備を始めたのは、全泰壱事件の前からだったと見るのが自然だろう。 高校時代の康宗憲に誰がそういう民族観や民衆觀を教え込んだのかは後に見ることにし、以上の短い引用だけでも康宗憲が何の政治的意識なしに留学生活をしていたという主張は真っ赤な嘘であることがわかる。 康宗憲は自叙伝で自分の韓国での生活の様子や感想を、次のように描写している。 ◆ 一九七一年当時の韓国は貧富の格差を論じる前に、民衆の生活水準そのものが、絶対的な貧困の域を脱していなかった。 (中略)大学病院には「血を売ってわずかの生活費を稼ぐため」の痩せて顔色の悪い人たちが群がっていた。(自叙伝26ページ)◆ このように康宗憲は、民衆の実状として記している。彼は1972年3月にソウル大学文理科大学医予科に入るが、その夏の「南北共同声明」の数日後のことをこう書いている。 ◆ 平素から私は、反共の枠に囚われている学生たちの考え方を、いささか苦々しく思っていたところです。それで、今回、政府が共同声明で自主・平和・民族大同団結の統一原則に同意したのは、北の政権実態を認めたことを意味すると思う。そうなると、国是を反共ではなく、平和統一に変更する時代に入ったのではないのか。(自叙伝31ページ)◆ 康宗憲は1973年の秋には、医予科にできた学生運動グループに加わった。日本から来た康宗憲も、何のわだかまりもなくその仲間に入っていたという。◆ 講義が終わると大学周辺の下宿に集まり、民主化のために何をすべきか、時間が経つのも忘れて真剣に論じ合ったものです。(中略)そして、祖国の現状を正しく分析するためにも社会科学の学習を始めようという結論になりました。 (中略)私は、帝国主義に侵略されたアジア諸国の歴史を学ぶのが、韓国の現状を考える上で参考になると考えていました。そして、そのように提議してみたものの、テキストにするだけの良い教材が見当たりませんでした。(自叙伝40、41ページ)◆ 医学部の本科に進学した康宗憲は、いよいよ「社会医学研究会」(社医研)という非公開サークルの秘密メンバーになる。(続く)

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