在日の従北との闘争史~解放後から民団結成まで~終

「朝連」の革命路線と決別して「民団」結成
日付: 2014年03月19日 00時00分

「朝連」と日本共産党
 「建同」と「建青」は、「朝連」との「死闘」を繰り広げてきたが、両方の勢力はどうだったのか。 李奉男氏は、在日同胞が150万人ほどの時、「建同」と「建青」は20万人ぐらいだったのではないかと振り返る。
 朝総連や日本共産党は当時の歴史を伏せているが、日本共産党の再建に決定的に寄与したのが朝鮮人共産主義者たちや「朝連」だ。「朝連」が日共再建の陰の主役だった。日共の指導部には金天海など朝鮮人共産主義者たちが名前を連ね、再建された日共には「朝鮮人部」(後の「民族対策部」)が設置された。そして、「朝連」は日共の革命闘争の前衛隊だった。日共の前衛隊として危険な暴力闘争に動員された人々は今ほとんど亡くなったが、当時の証言は多い。
 韓半島の北には、スターリンの指令で早くも1946年2月「北朝鮮臨時人民委員会」(委員長=金日成)が出帆した。「朝連」はこの平壌のソ連軍政とつながっていた。「朝連」と日共の信託統治賛成はソ連の指令だった。
 そのような状況でも「建同」と「建青」は信託統治反対闘争など同胞社会の左傾化を止めるため闘争した。そして、1946年3月、初の3・1独立運動記念式と8・15解放1周年記念式を東京・日比谷公会堂で開催した。植民地時代に犠牲になった独立運動家(尹奉吉、白貞基、李奉昌など)の遺骨本国奉還事業も推進し、7月には殉国烈士(7柱)の遺骨奉還を実現した。
 解放一年を迎えて、在日同胞の権益保護のための「居留民団」の必要性が提起された。「建同」は8月31日、第2回全国大会で反共民族陣営を結集した「居留民団」組織問題を提起した。
 「建同」は9月25日、本部講堂で32団体の代表が集って、「民団結成準備委員会」を発足。「建青」も同じ日に永田町国民学校講堂で第3回全国大会を開催、「民団結成準備委員会」へ参加を決定した。「建同」と「建青」は9月28日、全国代議員合同会議で「居留民団」創設原則を確認した。
 一方、民団結成の動きに対して「朝連」は9月26日、「在日同胞に告ぐ」を発表、「民団の結成は、反動分子の悪質的謀略である」と批判した。
「民団」創団
 10月3日、東京・日比谷公会堂で「在日本朝鮮人居留民団」の創団大会が開かれた。全国から218人の代議員と「建同」や「建青」、建国促進会、朝鮮倶楽部など20余団体を含めた2000人が集まった。
 大会では、民団初代団長に「建同」委員長の朴烈、議長に高順欽、副団長に李康勲、事務総長に元心昌を選出し、第1次宣言書と決議文を採択した。宣言書は、在日同胞の団結を強調した。そして、民団の目的を(1)在留同胞の民生安定(2)在留同胞の教養向上(3)国際親善と明らかにした。
 決議文では「本国の情勢は、外国にいる我々にも強く響き自らの内にも色々矛盾と過誤の多いのを思い日本にいる我々は一致団結したいと今度『建青』と『建同』は相謀って各団体を糾合し民衆の要望に応へ在留朝鮮人の統合体(単一体)としての本民団結成を決意した」とした。
 創団5日後に「建青」機関紙『朝鮮新聞』は10月8日付で在日同胞の大同団結を訴える論説を出した。「居留民団生る」という題名で、「在日本朝鮮居留民団は生まれた。再び云うが、自然発生的に大衆の要望に支持されつつ結成された。故に個の団体は無色である。勿論、個人的には左右何れの思想も自由であるが、それだけに団体的に何等のイズムに偏するものではない。そうして団体自身の利益とか、これに属する者の利益を遂げるものでもないことも、謂うまでもない。(民団は)その名の示す通り、居留民全体の権益擁護にある、民生の安定にある。故に在日朝鮮人のすべてが、之に合流し之によって活動すべきが本当である。我々は之によって我々の理想を実現しなければならない」と打ち出した。
 「朝連」は民団結成直後の10月14日~17日、第3回全体大会を開き、「反動団体との闘争」を強調し、「建青」を批判しながら「居留民団」に対する警戒を促した。


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