大韓民国への反逆 その連鎖を絶て⑦

「作詞・作曲ができない」 康宗憲が示した矛盾
日付: 2014年03月19日 00時00分

 康宗憲の工作員としての活動は、裁判記録と判決文を通じて知るしかないが、康宗憲は2審裁判から、そして帰日後の活動や再審請求を通じて、自分の嫌疑は捏造されたものだと主張してきた。
 はたして韓国の裁判所は、無実の人間に有罪判決を言い渡したのか。康宗憲と一緒に大田刑務所と大邱刑務所で一緒に服役した金鉉奨(釜山米文化院放火事件で死刑判決)は2012年5月、死刑囚から無期囚に減刑された2人の青年が、刑務所の隣室にいたときに交わした対話を公開した。もちろん、康宗憲はその内容や再審法廷での証言を全面否定している。
 ところが、康宗憲の裁判記録などを見たこともない金鉉奨の証言は、康宗憲の密入北などを非常に具体的に記したもので、康本人でなければ到底知り得ない内容であり、捜査および裁判記録などの客観的事実と符合する内容だった。
 康宗憲は金鉉奨の証言内容だけでなく、金鉉奨とは友人関係でもないと否定。しかし康宗憲自身が書いた自叙伝は、金鉉奨の証言が真実であることを物語っている。
 前回の連載で、康宗憲は彼が密入北して労働党に加入したという嫌疑に対して、自伝では全く解明も試みなかった点を指摘した。その点について、康宗憲の自伝は多くの事実を教えてくれる。
 康宗憲は、彼が1972年の金日成誕生日に合わせて、首領の長寿を祈願する忠誠の歌を作って送ったという嫌疑についても全面否定した。裁判所は当時、康宗憲が金日成を賛美する歌を作詞・作曲したことを有罪と認定。72年4月14日付の労働新聞に掲載された曲こそ康宗憲が作詞・作曲した歌だと判決した。
 しかし康宗憲は2010年、「真実和解委員会」で「私は作詞・作曲ができない人です。北韓へそういう曲を送った事実はない」と述べた。しかし金鉉奨は、康宗憲が高校の時からギターを弾くのが好きで、金日成の誕生日に賞賛の歌を作って北へ送ったという話を聞いており、大田刑務所に収監中、康宗憲が「ひまわり」という歌を作詞、作曲したと証言した。
 作詞・作曲ができないという康宗憲の主張と、康宗憲が刑務所でも作詞、作曲をしたと言った金鉉奨の証言。康宗憲が歌を作曲できるか、あるいは作詞・作曲したことがあるのかは意外にも簡単に確認できた。康宗憲は自叙伝で、死刑が確定してから遺言を残すために歌を作ったと詳細に記述している。やや長いが引用する。

 万一に備え、せめて家族の何かを伝えたいと思いました。しかし、手元には筆記道具もメモ用紙もありません。手紙も、検閲があって思うように書けません。思い悩んだ挙げ句、当時の率直な心情を一篇の詩に託してみようと思いました。「ファッショ政権の犠牲になるかもしれないが、民主化と祖国統一の日は必ずやって来る」という詩です。『クナリオンダ(その日が来る)』という題名の拙い詩が、数日のうちに完成しました。だが、紙に書き残すわけにはいかないので、内容をそのうち忘れてしまうだろうと思い、少しでも記憶するには、曲をつけて歌にし、ときおり歌ってみることだと考えました。音楽は好きでしたが、格別な才能があったわけではありません。曲作りには苦心しました。幸い、朴牧師が隣室に居られたので、ぎこちないことばや不自然なメロディーは修正してもらいました。こうして「4・19革命記念日」の頃には、何とか作品ができあがったのです。
 朴炯圭牧師はこの『クナリオンダ』を覚え、7月17日に出所しました。そして民主化を求める集会のたびに、在日韓国人政治犯の釈放を広く訴えたのです。集会では、アピールの後に『クナリオンダ』をよく歌ったそうです。牧師は面会に来た私の家族にも会って、激励の言葉をかけてくれました。拙い詩にいささか暗いメロディーの獄中歌は、牧師のおかげで家族にも伝わり玄海灘を渡ったのです。(『死刑台から教壇へ』の89~90ページ)◆
 なお、『クナリオンダ』の歌詞は自叙伝の120ページに全文が載っている。
 康宗憲は、自らの著書によって作詞・差曲ができることを認めているのだ。再審法廷で裁判官は騙せたが、少なくとも古い友人である金鉉奨を嘘つきと罵倒したことについては謝罪すべきだろう。(続く)


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