康宗憲は公人だ。大韓民国の国会議員候補であり、当然検証を受けねばならない。
幸いなことに彼は多くの記録を残している。まず、彼が残した言葉や記録の真実性、信頼性を検証してみよう。
康宗憲の自伝を通じて、成人になる前に社会主義に接した当時の在日青年が、どのように「革命戦士」として作られたのかがある程度わかる。彼の自叙伝は、韓半島の事情を知らない人には真実のように見えるかもしれないが、率直さなどまったく見られない。革命のためなら嘘でも何でも正当化する「革命戦士」が多いが、康宗憲の自叙伝はそういう印象だ。
まず、彼は母国留学の目的が革命への挺身だったことを隠すため苦心する。いずれ自分の革命的信条を主張することになる彼が、なぜ母国留学の動機を隠すのか、理解しがたい。
おそらく、韓国当局が純真無垢な留学生をスパイとしたと主張するためだろう。しかし最初からこのように正直でない、不自然な記述は、前後のつじつまが合わないため、より大きな矛盾を生んで徐々に支離滅裂になる。康宗憲が逮捕された後の法廷闘争や獄中生活を描いた自伝の内容から、冷静に読めばすぐに気付く矛盾や平壌への忠誠心を示した部分を紹介する。
康宗憲はなぜか自分が接触した人々について、全く名前を伏せている。朴炯圭牧師や文益煥牧師などは例外的に名前が記述されているが、彼らは大衆的に広く知られた人士だ。
康宗憲が強調するように、収監された人々が本当に純粋で堂々たる「民主化運動」をしたなら、30年以上の歳月が経った今も名前を明らかにしない理由はないはずだ。彼がイニシャルだけで記したのは、もしかして秘密工作のようなものと関連があるのではないかという印象を抱かせる。
康宗憲は自叙伝で当初は、自分が属したソウル大学医学部の非公開サークルだった「社医研」が理念サークルであると明示したが、法廷闘争を紹介する部分では、社会主義や共産主義に傾倒したものではないと主張する(自伝57ページ)。
康宗憲は、高校時代から民族の構成要素としての民衆的観点を最も重要に考えるようになったと記しながらも、自分の生涯を決めることになったこの問題について、誰を通じて、あるいはどういう本を読んで形成されたのか、明確にはその過程に触れていない。金日成に忠誠を誓っている朝総連系の人物から本を借りたのも、単純な人間的親交だったと主張する(自伝61ページ)。
彼は収監生活中の寒さと空腹などは詳細に記述しながらも、驚くべきことに、自分が北韓工作員として裁かれた核心的事案である密入北に関しては反論を試みようともしていない。拷問に負けて、北韓工作船に乗って密入北したと虚偽の自白をしたのなら、自伝ではこの部分が最も重要に扱われて当然だ。再審まで請求した「捏造された悔しいこと」について、反論すら試みなかったことは何を意味するのか。
「ファッショ政権」が自分を北の工作員と規定し、死刑を宣告した密入北とスパイ教育容疑が全く根拠のない捏造であれば、それに対して具体的に反論しアリバイを主張するのが自叙伝の最も重要な部分になるはずだ。なぜ康宗憲は、自分の家族や「民主化運動家たち」の期待を裏切って、せっかくの自叙伝でこの決定的な自己弁護を放棄したのだろうか。
康宗憲は、13年間の投獄生活を記録している。拘置所での寒さと空腹、そして死刑囚として手錠をかけられて過ごしたことなど肉体的苦痛が主であり、ほかには「民主化」と「統一」のための獄中闘争や内外情勢の分析に紙幅を割いている。
獄中闘争の記録から明らかになるのは、彼が典型的な工作員であることと、信念に基づいて編み出した話がもたらした支離滅裂な矛盾だらけだ。
康宗憲は、1審裁判の時になぜ果敢な法廷闘争を展開しなかったのかと恥ずかしく思った(自伝69ページ)と言ったかと思えば、すぐに自分は民主化運動に共感する一人にすぎなかった(同70ページ)という。1審裁判の最終陳述で、自分は決して北韓のスパイではなく、民主化と統一を念願する在日韓国人青年として留学を決心し、学友をスパイ事件に引き入れることは、許されざる反共宣伝であるという趣旨の陳述をしたと主張するが(同72ページ)、後の収監生活を記録した状況とは一致しない。これにより自らの主張が真実でないと告白したも同然だ。 (続く)