1946年に入ってからの在日同胞社会の最大の争点は、祖国の独立問題だった。前年12月のモスクワ三国外相会議で、米・英・ソ・中の4カ国による最長5年の「信託統治」の方針が決められた。この決定案に対して、在日同胞も賛成か反対で対立が激化する。
1月の「建同」結成前に東京・立川飛行場で「朝連」は朴烈氏の歓迎大会を開いた。会場には「朝鮮の信託統治を支持する」というプラカードが掲げられた。朴烈氏の演説が終わった後に、一人の女性が「信託統治に反対です」と叫んだ。その人が在日韓国婦人会中央本部初代会長(1949年6月15日結成)の呉基文氏だった。
呉氏は「私は信託統治に絶対反対。他国に頼らず、私たちの力で、わらぶきでもいいから、我が国独立の家を建てましょう」と訴えた。この発言で会場は、左翼の一斉反発で大騒動になった。
この後、「建同」が結成されると、呉氏は朴烈氏らを借金までして財政的に支援した。呉氏は朴烈「建同」委員長から特別功労者として表彰も受けた。
「朝連第2次全体大会」での血闘
2月に入ると、「建青」と「建同」の民族陣営は「信託統治」に反対、左翼の「朝連」はモスクワの指令で賛成と明確になる。「朝連」は2月27日、東京都千代田区永田町国民学校で「第2次全体大会」を開催する。700人の「朝連自治隊」が警戒した。ここで「建青」と「建同」は、信託統治反対決議を行動で宣言した。
大会では、「朝鮮人民共和国建設問題」と「信託統治問題」が論議された。ところが、司会進行をしていた金載華秋田県本部委員長(後に民団中央団長など歴任)が緊急動議を要請し、「内外情勢の判断に過ちがあり、在日同胞を間違った方向へと誘導している朝連中央幹部は、その責任を負って総退陣せよ」と決議文を朗読した。
また、アナーキストの鄭哲が「議長団に(日共の)スパイがいる」と糾弾し、会場は混乱に陥った。会場内にいた「建同」と「建青」の会員が、一斉に反託ビラをバラまいた。そして「共産主義者は朝連から出て行け」と訴え、場内は修羅場となった。
ビラなどをバラまいていた丁賛鎮と李紋烈は、「朝連自治隊」に押さえられて身体検査を受け、拳銃所持が見つかった。「朝連」は人民裁判を始めたが、鄭哲らが救出した。救出のため、鄭哲が拳銃を発射するなどして乱闘になった。米軍のMPが出動して事態を収拾した。
この事件後、「朝連」は「朝鮮人民共和国」の建設と、「信託統治」を賛成する立場を明確にした。また、「建青」と「建同」を「テロ反動団体」と規定し、粉砕闘争を誓った。
「瀧野川襲撃事件」
3月11日、東京都北区瀧野川の李奉吉氏宅で「建青城北支部結成式」が行われた。事前に情報を入手した「朝連」は、米軍憲兵に告げ口し、建青員一人一人を身体検査させた。しかし、何も犯罪になるようなものはなかったため、憲兵は引き揚げた。
「建青」側が武装していないことがわかった「朝連王子支部青年自治隊」の200人が乱入し、建青員15人を「朝連向島支部」まで拉致し、殴りまくった。
李奉男氏によれば、当時は米軍政もまだ基盤が整っていなかったし、警察は無力だった。それで、「朝連」は警察の留置所などを勝手に使えた。「建青」を襲撃しては、建青員を捕まえて留置所に閉じ込めることもあった。「建青」は「朝連」の大々的な襲撃に対抗するのに苦労した。どこかの「建青」支部が「朝連」に襲撃されれば、「建青」は正当防衛の報復として別の「朝連」支部を攻撃した。