「建同」結成
「建青」が全国的に組織される中で、大人たちを中心にした「新朝鮮建設同盟」(建同)も結成される。
1945年10月27日、秋田刑務所で服役していた独立運動家の朴烈氏が釈放された。朴氏は「建青」と「朝連」の闘争が続く中、11月26日に上京した。
「朝連」は、東京・日比谷公会堂で朴烈氏の歓迎大会を開催するなどしたが、朴氏は左派である「朝連」との連帯を拒否した。
「建青」は、「朝連」が金天海を中心に組織を強化することに対抗して反共民族陣営として朴氏を擁立した。
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「海外同胞訓練所」の「建青」幹部たち |
そして1946年1月20日、朴氏を中心に「建同」が発足した。
中央委員長には初代民団中央団長になる朴烈氏、副委員長には李康勲氏(初代民団中央副団長)、元心昌氏(後に民団中央団長)などが選任された。
「建同」は「『朝連』の民族解放を忘却した信託統治支持の態度は、誠に遺憾だ。私たちはどこまでも自主、自由、祖国の完全独立のための新朝鮮の建設を目標に隣邦諸民族と協同して、その先駆になる」と宣言した。
「建同」の事務所は、「建青」本部があった東京・青山の「旧陸軍大学校」に置かれ、本格的に活動しはじめた。主に李康勲副委員長が、「建同」の支部を結成するために各地を廻った。
李副委員長が1月末、支部結成のために最初に訪れたのは、山梨県韮崎だった。当初は甲府も考えられたが、「朝連」の強い地域であったため、韮崎が選ばれた。
李氏が会場で独立運動と「建同」に対して講演中、「朝連自治隊」が襲撃してきた。そして李氏は韮崎市内の旅館に拉致された。李氏の居場所がわかったのは、事件の翌々日だった。
「建青」は、実力で李氏を監禁された旅館から救出した。監禁場所で「朝連」が、李氏に無理矢理に「朝連に協力する」と書かせた文書が見つかった。「建青」会員は、その文書を破棄し、李氏を保護して東京に戻った。
「建同」が「建青」とともに各地で支部を結成しようとすれば、「朝連自治隊」が襲撃して来たため、組織の拡大は順調に進まなかった。
「建青」会員は、天沼の訓練所に常時300人ほどおり、組織幹部の養成所になっていた。訓練期間は3カ月ほどだった。訓練を終えた会員は、「建同」と「建青」の各地の支部結成のために派遣され、特に「朝連自治隊」の襲撃から組織を護った。
『朝鮮新聞』創刊
3月10日には、「建青」機関紙『朝鮮新聞』が創刊された。「発刊の辞」で洪賢基委員長は「民族統一を口にして虚偽と弾圧をその手段とする者がいるとすれば、それは大きな誤謬であり、また彼は必然的に失敗を見るであろう」と述べ、「朝連」を批判した。
創刊号では、東京・銀座支部の結成大会の様子が報じられた。「去る3月7日午前11時京橋公会堂に於いて、李康勲先生を始め、本同盟委員長洪賢基氏並びに各地方支部長臨席の下華々しく結成された」。大会には1000人の同胞が参加した。
「建青」と「建同」は、苦労しながらも、着実に各地に支部を作った。