「建青」は翌年2月頃までに、千葉、神奈川、茨城、長野、群馬、秋田、兵庫、大阪などに地方本部や支部を発足した。
都内では、城南(大田)、品川、城東(墨田)、中野、立川などの順で支部ができた。発足当初の中野支部では李禧元氏と鄭建永氏、立川支部では李裕天氏が代表を務めた。李禧元氏と李裕天氏の二人は後に民団中央団長、鄭建永氏は体育会会長にもなった。そのほかの地域でも「建青」出身者が後に民団団長などの中核になる。
「建青」の支部ができるたびに「朝連自治隊」による襲撃は続いた。12月のクリスマス前に開かれた城東支部の結成大会では、「朝連」側が発射した拳銃で建青員(江原道出身20歳)が、死亡した事件もあった。
「建青」の事務所を「海外同胞訓練所」に移転
「建青」は「神田市街戦事件」で神田神保町の事務所を破壊されて使えなくなった。そして杉並区天沼の「海外同胞訓練所」に事務所を移した。
「海外同胞訓練所」の事務所に移った「建青」本部は、GHQに守られていた。「朝連」による襲撃は受けなかった。GHQからの配給もあって訓練所の生活も落ち着いた。混乱期だったこともあり、配給されたビール券などの一部を売って活動資金にした。
そして、「朝連自治隊」に対抗して「建青建設隊」を作った。その中には全国の「朝連」の動向を把握、情報収集する特殊部隊もあった。12月末には、「建青」に全国から250人から300人が集まった。
訓練所時代の生活は、普通は朝5時に起床し、グラウンドで体操をして、天沼から荻窪までを一周する。委員長などから朝の訓示を受けて食事をした後、朝9時からは大学教授などによる授業もあった。基礎的な教養を身につけることも必要とされた。「建青」が推薦した人は、日本の大学にも入学できた。
全国で一番早く結成された「建青兵庫」
「建青」の地方の本部や支部の中では、兵庫本部の結成が一番早かった。
兵庫の「建青」メンバーたちは、「神田市街戦事件」でも東京からの救援要請に応えて「朝連」と闘った。そして、後に兵庫の初代副委員長になる皇甫石氏が胸部を刺され重傷を負った。
神田市街戦の後、地元に戻った青年たちは、後に「建青兵庫」第2代委員長で初代兵庫民団団長になる玄孝燮氏や初代委員長の文東建氏(後に朝総連に転向)らを中心に本部結成を準備した。結成大会は12月15日、神戸・新開地のガスビルで開催、3000人の同胞が参加した。
翌年2月21日には、「建青兵庫」主催で初代民団中央団長になる朴烈氏と李康勲氏を迎えて歓迎大会を開いた。「朝連」が妨害したが、実力で排除した。
在日同胞が多く住んでいた大阪では、11月初旬に房福男氏を会長とする「朝鮮青年托進会」が生野区大池橋で結成された。この「托進会」を中心に翌年2月、生野区一条通の「日の丸映画館」で「建青大阪」が発足した。100人の同胞が参加した。
初代委員長には曺秉昊氏、副委員長には房福男氏が就任した。結成大会では、「朝連自治隊」が100人も会場に雪崩れ込み、乱闘事件にもなった。しかし、憲兵隊の出動で難は逃れた。
一方で同時期に韓半島の事情はどうだったか。
東西冷戦終結後モスクワから発見された史料によると、スターリンは1945年9月20日平壌のソ連軍司令官に北にブルジョア民主政権、つまり単独政府を樹立するよう秘密指令を出した。それで北では早くも1946年2月8日に「北朝鮮臨時人民委員会」が樹立された。「朝連」の「建青」襲撃は、こういう平壌の動きと連動していた。