解放2カ月後の1945年10月15日に「朝連」は創立されているが、共産系列の工作で「朝連」の左傾化が決定的になるや、これに反発した反共人士を中心にした「建青」が一カ月後の11月16日に結成される。
後に「建青」に集まるようになる青年たちは、当初ハーバード大学出身で英語が堪能な趙得聖氏を「朝連」準備委員長に推していた。
この動きを『朝日新聞』は1945年9月4日付で「今度東京都神田区美土代町(現在の千代田区北部)東京基督教青年会館内に在日本朝鮮人連盟を設け、趙得聖氏を代表として残留希望者の就職斡旋、帰国者の手続きなど相談に応ずることになった」と報道した。
反共有志たちは当初、趙得聖氏を「朝連」準備委員長、後に民団中央団長を務めた権逸氏を副委員長にして、10月の「朝連」結成大会に備えた。
だが、「朝連」の左傾化の動きを察知していた青年たちは、すでに秘密裏に別途の組織「建青」の準備に取りかかっていた。
こういう状況で「朝連自治隊」が「建青」を襲撃する事件が早くも続発し、暴力事態になった。
「建青」に参加していた李奉男軍人会会長によると、当時「朝連」結成大会までに「朝連自治隊」が、「建青」を襲撃した代表的な暴力事態としては、「九段下襲撃事件」と「神田神保町襲撃事件」があったという。
「九段下襲撃事件」
この事件は9月初旬頃、「朝連自治隊」が「朝連」準備委員長に趙得聖氏を推していた「建青」の神田神保町の事務所を襲撃した事件だ。
その事務所は、後に「建青」初代委員長になる洪賢基氏の会社事務所と印刷工場の中にあった。
洪氏は、自分の会社の紙などを売って「建青」の活動費に充てていた。その事務所が襲われ破壊された。
「朝連自治隊」が神奈川・川崎からトッラク5台の200人ほどを動員して事務所を襲撃した。
李奉男氏はその時、事務所近くで食事をしていたが、「バーン」とつるはしや棒などでガラスの割られる音が聞こえた。
事務所にいた人たちは、「朝連自治隊」により殴られており、同志らが駆けつけ、後ろから棒で殴るなどして、大乱闘が1時間も続いた。誰かが憲兵を呼ぶと、「朝連自治隊」は逃げたという。
当時「建青」に集まった反共青年たちは、日本共産党員だった金天海が「朝連」から反共的人士を完全排除し、主導権を掌握したため、反共人士が中心になって「建青」を発足させた。
「建青」は「解放された祖国に早く国を作る」ことが目標だった。だが、日本に残留する在日同胞の生命と財産を守る必要もあったので、それも重要な課題になった。
この年の年末、モスクワ三相会議や「信託統治案」が浮上してきた当初は「建青」も「朝連」も信託統治に反対だったが、「朝連」はモスクワの指令によって信託統治賛成に変わった。当時南労党も「反託」から一夜で「賛託」に変わった。
朝総連の平壌に盲目的な追従する体質は、その前身の「朝連」時代から始まったことがわかる。
「神田神保町襲撃事件」
「九段下襲撃事件」で破壊された「建青」の事務所が修理された頃、兵庫や千葉、神奈川など全国からも同志たちがやってきた。
人が増えたため、高円寺に事務所を用意していた10月中旬に、また神田神保町の事務所が襲撃された。これが「神田神保町襲撃事件」だ。
今度襲撃してきたのは荒川を中心にした都内の「朝連自治隊」だった。「建青」メンバーの二人が胸を刺されたが、犯人を結局は逃がしてしまった。
いずれにせよ、「朝連」結成大会前から、「建青」と「朝連」の闘いは始まっていた。