【特別インタビュー】 中野 寛成氏 「隠れキリシタンの家系で培った公平な目」

ともに感情的になる日韓 「大人」になって共存共栄を
日付: 2013年07月10日 02時39分

 政治家を志したきっかけは。
 「私が4歳のときに長崎に原爆が落とされました。実家は爆心地から1キロの場所にあったのですが、たまたま疎開中で助かりました。戦争が終わって1週間ほど経ったときに実家を探しに行きましたが、まったくの焼け野原でした。その中で焦げた白衣を着て負傷者の治療にあたる医師を見て、最初は医師を志しました。おばが原爆の後遺症で髪がごっそり抜けたことや、幼少期に病弱だった私の住んでいた集落が無医村で、母親に苦労をかけたことも理由です。小学校に入ってすぐに『紅緑色弱』であることがわかり、医師への道は諦めましたが、父に『被爆者を治す医者になれないなら、原爆や戦争をなくす仕事をしろ。政治家になれば無医村問題も解決できる』といわれ、政治家を志すようになりました」
 政治家として心がけてきたことは。
 「平和な世の中を作るということです。そして国民の生命と心を大切にすること。幼少期は父の事業失敗などで長崎県内を転々としていました。非常に貧し
中野 寛成氏
く、働きながら大学まで出ました。こうした経験から中小企業対策や青少年の育英事業、格差是正にも力を入れてきました」
 こうした功績のほかに、在日韓国人をはじめとする外国人の権益向上にも取り組んできましたね。
 「父が崎戸炭鉱(現・長崎県西海市)近くで雑貨屋を営んでいたとき、近所に在日韓国人のおばさんが住んでいました。今思えばキムチや韓国のもちだったのでしょうが、家にいろいろとおすそ分けをしてくれて、自然と親しみがわきました。中学生のときに大阪の豊中に移ってきてからは韓国系の同窓生がたくさんいましたし、在日韓国人が集住している地区もありました。彼らに偏見を抱く人もいましたが、実は私の祖先は隠れキリシタンで厳しい迫害の歴史を持っていますので、彼らを同じ人間として見ていました。ただ、そのときは彼らが抱えている問題などは知らず、知ったのは国会議員になってからでした」
 どのようなきっかけだったのでしょう。
 「1年生議員のときに、同じ民社党の春日一幸先生(当時の日韓議員連盟会長代行)から『大阪の中之島公会堂で在日韓国人の権益向上のための大会がある。君の地元開催なのだから行ってきなさい』といわれ、そこで在日韓国人の指紋押捺や外国人登録、公的施設や制度の利用制限について知りました。国民年金への加入もそのうちの一つです。何とか問題を解決しなければと思いました。65年の日韓基本条約には当時の自民党と民社党が賛成しました。在日韓国人も、もとはといえば日本の植民地支配から始まったものです。これに責任を持たないといけない、在日韓国人がいつまでものどに引っかかった骨のような存在では彼らにとっても日本人にとっても不幸だと思いました」
 しかし当時の両国関係は悪かった。
 「全斗煥大統領の時代に日韓の政界のパイプが切れました。そこで春日先生は、私にパイプの再構築を命じました。韓国に行って全大統領に会ってこいというのです。そのころはちょうど、金大中軍事裁判の第2審の最中でしたが、春日先生は『韓国は軍政下にあっても着実に民主化の道を歩んでいることを世界の首脳たちに日韓議員連盟として発信するので、そのためにも金大中を死刑にすべきではない』との信書を、全大統領に届けるよう命じられました。そんな大任をと思いましたが、春日先生は一計を案じてくれました。実は中之島での大会には韓国から法律相談のために弁護士が来る予定でしたが、突然軍政下となり、許可が下りずに来日できませんでした。金大中氏の救命運動の機運も高まっていましたから、在日韓国人の請願をかなえてほしいという親書をしたためてもらい、それを渡すという名目で韓国に行きました」
 全大統領には会えたのですか?
 「直接は会えませんでした。しかし当時首都警備司令官だった朴世直氏(後のソウル市長やソウル五輪組織委員長、韓日ワールドカップ韓国組織委員長、国会議員など歴任)や国軍保安司令官だった盧泰愚・元大統領、浦項製鉄創業者の朴泰俊氏らと会いました。彼らの協力もあって親書は大統領の首席秘書官だった許文道氏に渡すことができました」
全斗煥大統領時代には、初の韓日首脳会談が開かれた。右側が当時、勲章を授与された中曽根康弘首相

 昨今の韓日関係はどう捉えていますか。
 「互いに感情的になっていると思います。日本も韓国も大人になって協力していかなければなりません。でないとグローバル社会の中で生き残っていけない。そういう共存共栄の意識を培っていかないといけないと、腹の底から思わないといけないでしょう。植民地支配で日本は創氏改名や日本語の強制、あるいは親から受け継いできた韓国人の銀食器取り上げなど、韓国人の原点を踏みにじったことをしたのに、その過ちを素直に謝れない。一方の韓国では日本に対する公平な評価は出にくい。私が在日外国人の法的地位向上に取り組んできたのは、彼らに対する差別をなくそうと考えたためだけではなく、国内での差別が日本の恥になると考えたからです。究極的には日本のためです」
 メンツにこだわっているばかりではだめだということでしょうか。
 「そうですね。正しい意味での高い誇りを持つべきなのです。両国ともにね。日本と韓国は気候風土が似ていて、人材以外に資源がないという点でも一致しています。古くからの歴史においても共有する部分が多い。私は今こそ真の理解ができる時期を迎えていると思っています。安倍首相は『歴史については専門家に任せる』とおっしゃっていますが、真相解明まではそれでいいでしょう。しかし歴史解釈については専門家以外の人も交えた第三者委員会などですり合わせ、仮に法整備をするなら、そこは政治家の仕事になります。これは党利党略でやってはいけません」
 今、社会問題になっているヘイトスピーチデモについてはどう考えていますか。
 「デモについてはよくわからないのですが、私は世界連邦主義を唱えています。世界版のEUといったところでしょうか。これはアインシュタインと湯川秀樹の会話の中から生まれた考えです。湯川に会ったアインシュタインが『アメリカの物理学者が作った原爆で日本に大きな被害を与えてすまない』と述べ、それぞれの文化を尊重しながらひとつになろうと提案したのです。そういう考えがないと真の平和は生まれません。差別というのは差別されたひがみの裏返しだといわれます。他者を差別する人は、その上位の人から差別された恨みのようなものを自分より立場の弱い人にぶつけるのです。それは止めないといけません」

中野寛成(なかのかんせい)1940年、長崎県生まれ。関西大学法学部卒。大阪府豊中市議会議員から国政に進出。昨年12月まで衆議院議員を11期務める。


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