柳根一
北韓人権活動家・金永煥(*
右写真、7月25日の記者会見)が中国公安当局に拷問された事情はわれわれの時代の意味が何なのかを端的に物語る。それは全体主義-権威主義の北方勢力に対する南方勢力の‘自由のための闘争’だ。
東北アジアの問題、韓半島問題をキッシンジャー類の現実主義国際政治観から見る見解がもちろん不可避な点がある。力を持っている北方勢力を道徳的に断罪して見たってどうしようもないから、ただそういう側と勢力均衡を成して平和を管理するしか...という諦めに一理が全くない訳ではない。
しかし、政府次元でない市民社会の次元では、人間として、自由人として、知識人として、活動家としてそういう諦めにノー(No)と言える。現実主義者らはそれを“無謀だ”と言うだろう。だが、歴史にはそういう‘無謀な逆らい’によって意志的に創出される部分が明確にある。巨大な歴史的変革は、多くの場合、金城鉄壁へ小さな穴を掘ることから始まったのではないか。
北方勢力の東の垣根である北韓は似非宗教の教祖が支配する巨大な‘封鎖収容所’だ。金永煥はそれに対して現実主義的な諦めよりは価値論的な逆らいで接近した。“あのような反人間的、反生命的体制を人間としてどう諦められるというのか? あれは当然変革されねばならない”ということだった。
これを北方勢力の主軸である中国の権威主義公安権力が容認しなかった。彼を令状なしで逮捕、拘禁し、嫌疑事実も知らせず140余日間苛酷な行為を加えながら“君の罪は君が知っている筈た!”という手口で、極めて反文明的な暴挙を恣行した。中国は彼らの西の垣根であるチベットと東の垣根の北韓を如何なることをやってでも‘現状維持(status quo)"するという意志をもう一度宣言したわけだ。
ところが、宣言をしたのは中国だけでなかった。金永煥活動家も休戦以後恐らく初めてに‘北韓民主変革論’を北方勢力の宗主国の地で堂々と宣言したわけだ。彼はもちろん宣言をしようと決めていた訳ではない。中国の公安当局が彼を無断に逮捕、拘禁、拷問したことで彼の宣言が思いがけず導出されたのだ。だが、何れにせよ宣言は宣言だった。
悪の権勢は世人の現実主義的諦念と沈黙を食べながら成長する。こういう時、活動家は一本のロウソクに火をつけて“悪の権勢よ、光の中に姿を現せ!”と叫ぶ。初めには彼の孤独な叫び声は闇の中に埋もれる。しかし、ついに闇は光に勝てない。変革はこのように孤独に始まるものだ。
大統領の権力を追求する朴槿恵、文在寅、安哲秀が‘悪に対して太陽政策’を云為することは政治屋のビジネスとして諦めよう。だが、大統領など望まない人間の良心の立場では“悪は光で消滅させなければならない”という当為のため生き当然のため死に得る。
柳根一の耽美主義クラブ http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2012.07.26 09:46