「助けて!」は静かには叫べない!

日付: 2012年03月29日 03時05分

柳根一
KBS放送の時事討論に4人の討論者が出て脱北者強制送還に対して語った。不快感を与え心に傷ばかりを付けるのがTV討論であるため全く見なかったが、今度は主題が主題であるだけに最後まで見た。悪くなかった。筆者が同意できる側も同意できない側も互いに礼儀を以って落ち着いて討論を進めた。私が同意できない側も脱北者の強制送還は阻止すべきだという原論では意見が一致した。方法論で違っただけだ。
論点は、方法論において公開的に圧迫するか、静かに接近すべきかという問題だった。一方は、われわれ韓国が現実的に中国と取引することが多いから中国の立場を理解しながら時間をもって静かに問題を提起して行こうという主張を展開した。視聴者の一人は「脱北者がでないようにするには北に食糧支援をしなければならない」とも言った。それなりの意思表現でありその権利は尊重する。だが、そういう意見に同意はできない。
脱北者の強制送還問題の本質は何か? 人が死にそうになった時「ア、あの人たちが死にそうだ! 助けて!」と叫ぶSOSの悲鳴だ。これは本能であり自然発生的で人情の常だ。なのに、この悲鳴を静かに叫べ? どのように? ふとん被って?
KBSの時事討論でなくても、悲鳴をあげるほど脱北者の立場はもっと悪くなるという論理も韓国社会の一部にはある。これを一般化させれば全世界の抑圧的政権の下で虐待されている数多くの収監者らを見ても、彼らの境遇がさらに悪くならないように公開的に話さず静かにしなければならないという話にもなり得る。
それでは、全世界の人権運動はこれからいっせいに口を閉じるべきなのか? ミャンマーのアウンサン・スーチーを釈放しろとの悲鳴も、中国のノーベル文学賞受賞者のを釈放しろとの悲鳴も一切叫んではならないということなのか?
騒いでも直ぐはあまり効果がないかも知れない。だが、叫び続けねばならない。それでそれを全世界の人道的なイシューとして議題化しなければならない。議題化されずには議論になれず、議論にならずには地中に深く埋められてしまうからだ。人を誰も知らないうちにこっそり殺すのを見ても、周辺の人々が「何を考慮して」そのまま放っておけば、その「誰も知らないうちにこっそり」は永久に、安心したまま続くのではないか?
注目すべきことは、この問題が方法論上の異見の次元になったという点だ。それくらい北韓人権、脱北者の人権問題をこれ以上堂々と反対はできなくなったという話だ。韓国社会の一部は当初、「南韓政府のせいで北に関する情報がないため北韓人権問題は分からない」というふうに開き直った。
ところが、北韓人権と脱北者問題は今まで義人たちが頑なに騒いだおかげで全世界的なイシューとして浮び上がっている。韓国に来ている脱北者の数が24000人に達したため、彼らが全部口を合わせて嘘をついているとは強弁できなくなった。言い張った人々もただ頑と開き直って沈黙するか、その論理が非常に苦しくなった。
今日も人々を屠殺場に追い遣る在韓中国大使館の前では「助けて!」の悲鳴が天に達している。助けて! 助けて! 助けて! この切羽詰った悲鳴をいったいどのように静かに叫べというのか。
柳根一の耽美主義クラブ http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2012.03.18

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