確かな復興の足音 先が見えぬつらさ

被災者・被災地に明暗
日付: 2012年03月14日 00時00分

 今まで本紙が取材してきた被災者は震災から1年後どうなっているのか。震災被害から立ち直った人、いまだ先が見えずに苦しんでいる人、宮城県と福島県から1人ずつ話を聞いた。

店を再開した曺孝男さん

宮城県多賀城市 曺孝男さん
 昨年4月に曺さんの店「ムジゲ」を訪れたとき、店内は津波によって沿岸部の工場から運ばれた油のにおいに満ちていた。8月の営業再開時には新しい材木の匂いがした。今年3月、店に入ると焼き肉の煙の匂いが鼻をくすぐった。
 「震災からの1年はあっという間だったよ」と話す。というよりも「人生の1ページとは別のページになっている」という感覚の方が強いのかもしれない。一昨年のことを話していても「去年は」と言ってしまうこともたびたびだ。
 被災したのは店を開くのに借りたローンを返済する直前のことだった。店内の補修や新たな備品購入などで数百万円を追加で借り入れた。店を閉めようかと思ったこともあるが、常連の「またやってよ」という声に後押しされた。韓国政府や民団からの支援金で「だいぶ気持ちが軽くなった」とも話す。
 営業再開後の客足を聞くと、震災前より好調だという。店の外観を明るくしたことで通りがかりの客が入ってくるようになった。周囲の飲食店が減ったという点も挙げられるだろう。
 「とにかく自分はラッキーだった」
 そう曺さんは話す。「もう震災前と変わらない」と話すのも、さまざまな支援を受けられたからだろう。特に昨年11月に行われた「多賀城・七ヶ浜 大復興祭」には感動したという。
 「これからはお世話になった人に恩返しをしなくちゃね」と曺さんは笑う。3月11日は普段と同じく店に立った。「ムジゲ」とは韓国語で虹を意味する。雨が降った後の空にかかる虹のように、震災後の多賀城に7色のアーチを描けるか、曺さんの挑戦は続く。

福島県郡山市 陳愛子さん
 「先が見えない」
 昨年から数回にわたって取材をしてきたが、いつもこの言葉が口をつく。陳さんが置かれた状況は、1年前と変わっていないからだ。「ヘビの生殺しのよう」という苦痛の声も聞かれた。
 原発の警戒区域内に家はある。生活の糧だった遊技業店も、親の墓も警戒区域内だ。現在は福島県の郡山市内に落ち着いている。生活は東京電力からの補償金に加え、今までの貯蓄を崩しつつまかなっている。
 昨年夏に許可を得て事務所に戻ってみると、店内は荒らされていた。その後一時帰宅をしたが、家の中はかび臭く、キノコが生えている場所もあった。滞在は短時間に限られるため、修理などはできない。家を出るときは「ごめんね」と心の中でつぶやく。家に置いてきた家財道具などに対してだ。
 帰りたくても帰れない日々。「家に戻れるなら以前の生活を取り戻すためにがんばれるのに」とため息をつくしかない。
 震災から1年。あの日のことを思い出させるテレビは見たくない。警戒区域内に住んでいた別の被災者は「いっそ故郷が火事になってすべて燃えてしまえば戻れる希望がなくなって楽になるのに」と話す。陳さんも「そのとおりです。津波が全部持っていってくれていれば」と同意する。
 生活の再建もままならぬまま、不自由な暮らしに出口は見えない。陳さんにとってこの1年は、ただ時が流れ去っただけだった。


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