金成昱
1.政治家は等しく「庶民と中産層」を力説する。有力な大統領候補である朴槿恵ハンナラ党非常対策委員長も「鯛焼き経済」という言葉を作って「庶民と中産層の暮らしに関心を持つことにすべての焦点を合わせねばならない」と強調する。《市場経済主義と産業化精神の承継、反ポピュリズム、大きな市場と小さい政府》を明示した政綱や政策も、公正競争と親庶民基調に変えると言う。今や成長でなく分配の時代ということなのか? 金バッチ(*国会議員)らは「福祉」、「共生」、「均衡」のような単語を極楽行きの念仏でもあるかのように果てし無く言い続ける。
庶民と中産層の暮らしに関心を注ぐのがリーダーの絶対的課題であることを否定する人はいない。だが、「公正競争」や「親庶民」という絢爛たるスローガンが人を食わせるものではない。ハンナラ党が無くそうとしている《市場経済主義と産業化精神の承継、反ポピュリズム、大きな市場と小さい政府》のような右派的価値が公正競争や親庶民を害し庶民と中産層の暮しを脅かすとはとんでもない話だ。
血を代償にして覚えた歴史の教訓は明快だ。自由、市場、法治、これを骨格とした《市場経済主義と産業化精神の承継、反ポピュリズム、大きな市場と小さい政府》のような右派的流れが貧困を無くし貧者も無くした。公正競争や親庶民、庶民と中産層の暮しが保障されたのは自由・市場・法治が拡散された結果である。
中南米や社会主義国家のように赤色のスローガンばかりが靡いた派手なシネマポリティカ(劇場政治)は、平等も自由もなせなかった。大衆の階級的恨み・憎悪・憤怒を刺激した体制は内から崩壊してしまう。「平等を掲げた社会は、平等も自由も達成できず、自由を掲げる社会はより大きな自由と平等を達成する」と言ったフリードマン(Milton Friedman)の指摘はすでに立証された命題だ。
2.自由・市場・法治は自然の道理だ。エネルギーというのは内に溜まれば腐り外へ循環せねばならない。エネルギーが内で腐らず外へ循環すること、これが自由であり、人間は誰も鳥のように自由を夢見る。それで自由は全ての生命のあるものが求める宇宙の本質的価値だ。エネルギー・力・気・世界精神と絶対精神、宗教的な名称は何であれ歴史は自由に向かって進歩した。
市場は、自由な個人と個人が死なず生きるためエネルギーを分けあう自生的秩序(spontaneous order)だ。国々へと拡張された市場は貿易と呼ぶ。法治は、ハイエックが指摘したように市場と貿易の循環が止まらないようにするための最小限の規範だ。
右派は自由・市場・法治の歴史的経験に忠実な「目が良い」人々だ。左派とは何か? この歴史的経験が過去に1000回当たったとしても次にな外れられると言い張る頑固で意地っ張りな者たちだ。
自由は「拡散」と「連結」を本質とする。国家はいつも二つの悩みに直面してきた。「空間の拡大と道の連結」という外向的発散、与えられた空間や与えられた道をよく整備しようという内向的収斂。
国が豊かになるための選択は例外がなかった。内向きでない外向き、収斂でない発散。閉ざされた理念と閉ざされた社会の呪詛を破った時世の中は活気があふれた。エネルギーが循環し、気が回り、力が溢れて世界精神と絶対精神が働いた。均衡・公平・平等のような観念的スローガンは流れる雲のようなものだ。閉鎖された小規模のグループには若干の効用があるかも知れないが、開放された舞台で間違いなく潰される外殻らだ。
3.旧韓末の朝鮮を4回も訪問して「朝鮮とその隣国(Korea and her Neighbors)」という本を書いたビショップ(Isabellar Bird Bishop. 1831年~ 1904年)女史は、1890年代の朝鮮の様子を不潔、怠惰、無気力、無関心、腐敗と迷信の国として描いた。
「私は釜山が凄惨なところだと思った。後で私はそれが朝鮮の村の一般的な様子であることが分かった。狭くて汚い通りや泥を塗り窓もなく垣根を巡らした小屋、麦わらの屋根、そして低い軒、庭から2フィート高さの煙突があり、外には固体と液体の廃棄物が溜まっている不規則な小川がある。汚い犬と半裸か全裸のままで目の悪い、垢だらけの子供たちが厚く積もったホコリと泥の中で寝転んだり陽光を眺めながら喘いでいたり目をしばしばさせながらひどい悪臭も何ともしないようだった」
「ソウルの臭いが最もひどいと思った。大都会である首都がこれほど不潔だということが到底信じられない。(…)曲がった小路の大部分は荷物を積んだ二匹の牛が擦れ違えない程狭く、一人が荷物を積んだ牡牛をやっと引っ張って通れるほどの幅だ。その道はしかも水溜まりや緑色の汚水が流れる下水道によってもっと狭くなる。下水には各家庭から捨てた固体と液体の汚物が溜まっており、彼らの不潔で悪臭の下水道は半裸の子供たちと皮膚病に罹り目が半分瞑った大きな犬たちの遊び場になっている。彼らは陽光に目をしばしばさせながらこの下水で寝転んでいる。」
前に進めない、光のない社会は腐るものだ。朝鮮は清貧という尤もらしいスローガンと人倫という派手な旗があるだけで民の泣き叫びと涙だけが満ちていた。ビショップ女史は、「官衙の刑罰方法は役人たちが罪人を残忍に鞭打ちして死ぬまで殴ることだ。罪人の苦痛の悲鳴は英国宣教館や隣接した部屋にまで聞こえてくる。不正腐敗が蔓延しほぼすべての官衙が悪の巣窟になっている」と書き、朝鮮の官衙を「悪の巣窟」と呼んだ。
開放社会、開放理念へと進めなかった朝鮮朝はスローガンと旗で覆った腐敗した死体のようだった。第2次大戦後マックス・レーニンの社会主義や共産主義の、また民衆主義やポピュリズムに乗換えたが、極東の仕切りの呪詛は未だ21世紀の韓国を徘徊している。それが「福祉」、「共生」、「均衡」のような政治的流行語らだ。
4.ジャングルの法則は変わらない。外向的発散-自由の道を歩む時国は発展し、内気的収斂-平等の道を歩む時衰退した。人であれ動物であれ興がわくように歩き回ってこそ生きるのだ。家で家族同士が争うと万事不通だ。家和万事成とは家庭にだけでなく国にも同様に適用される。金持ちと貧乏な者、階級と階級の葛藤を刺激した社会は滅びた。
去る60年間の韓半島は歴史のリトマス試験紙のようだった。輸入代替でない輸出指向、内向的収斂でない外向的発散の道を歩んだ韓国は成長の道を歩んできた。反面、国家の枠の内で有産者と無産者、親日派とパルチザン、共同体の内で線引きをして敵対的粛清の道を歩んできた北韓は内から腐ってきた。北韓はわが民族の血の中に流れるインサイダー(insider)に気質と朝鮮朝の朱子学、20世紀の共産主義が出会って生まれた極端の極だ。
李承晩と朴正煕は綿々と続いてきた先代の呪詛を断とうとした。不潔、怠惰、無気力、無関心、腐敗と迷信で満たされたこの地を、世界で指折りの成長した国に変えた。その当時の政策にいろんな評価があり得るが李承晩と朴正煕は内気的収斂でなく外向的発散、閉ざされた社会を開放社会へ導いた自由の化身だった。そして二人の心には民の涙をふいて泣き終わらせようとした愛があった。庶民と中産層のために、素朴な、だが輝かしい理念の道を歩んだ。
大統領を夢見る朴槿恵非常対策委員長が勝利への道から外れて走る。庶民と中産層のためには、自由、市場、法治の価値をもっと大きく育て休戦線以北へこの価値を拡散して統一することだ。先代が立証したことであり歴史が証明したものだ。南韓内でだけ仲むつまじく平等に暮らそうとする朴委員長に、突厥の名将トンユクク(Tonyuquq)の名言をぜひ聞かせたい。
「城を築いて住む者は必ず滅び、絶えず移動する者だけが生き残る」