韓国スポーツの発展支えた体育会 元老たちが語る秘話(下)

在日本大韓体育会60周年-1948年のロンドンから2012年のロンドンまで 
日付: 2012年01月12日 18時00分

 2月10日に60周年記念式典を開く在日本大韓体育会(以下、体育会)。民団の65周年式典でも本国の要人から体育会の貢献に感謝の言葉があった。それを機に、黎明期を知る元老クラスの顧問に現役会長を交え、歴史と今後の活動展開などを語ってもらった。

<参加者>

李奉男常任顧問

金致淳常任顧問

丁海龍顧問

     
 

金英宰常任顧問

朴安淳会長

 
組織も財政もナンバーワン 現状と課題

 元老の皆さんから見た、同胞社会における体育会の役割とは何でしょうか。
 丁海龍 体育会の活動というのは、やはり東京と大阪が中心になっている。地方はまだまだ。そこまで組織ができていない。後輩に会うたびに言っているのだけれども、体育会の底辺を広げなきゃいけない。青年組織と体育界は重層化していかないといけない。国体だけに目を向けていたのでは、選手のためだけの会になってしまう。草の根レベルの体育活動。これを地方ではやるべき。そういう意味で、関西の次にできた中北(中部・北陸)本部。その中心になっている愛知では青年会と共同で活動している。
 金致淳 名古屋ではオモニバレーなんかも盛んにやっているみたいだしね。
 丁海龍 そういう意味で体育会は地方に根を張っていなかった。東京と大阪だけで。
 金英宰 50年以上組織に関わってきて思うのは、体育会出身者が民団組織のトップや三機関に入っているケースがどれだけ増えたことか。体育会出身者はぶれないですね。民団は政治が絡むけれど、体育会は先輩・後輩の関係がしっかりしていますから。暗黙の規律がある。
 金致淳 88年のソウル五輪が終わったとき、財政などの不安から体育会は長く続かないんじゃないかと思っていた。ところが、今や組織の上でも財政の上でも体育会がナンバー・ワンだ。ソウル五輪後に危機感を抱き、そこから組織固めをしてきたことが功を奏している。
 金英宰 たしかに組織はしっかりしてきましたね。
 金致淳 それでもここで言っておかなければならない問題がある。第一スポーツセンターとソウル五輪の後援事業として立ち上げた体育振興財団。財団設立当時は民団から理事を3人入れることになっていたのがうやむやになってしまった。そこに理事を入れ、堂々と在日に支援してもらうようにしなければならない。もう一つは第一スポーツセンター。ここの宿泊施設とグラウンドとプールは設立当時の取り決めどおりに民団名義にすべきだ。今では設立目的が守られていない。当時の蔵相だった竹下登さんが、免税措置までしてくれた募金活動だったのだが残念だ。
 丁海龍 私も第一スポーツは使ったことがある。ゴルフ場なんかも当初のものと大きく変わってしまった。
 朴安淳 元の正しい道に戻さないといけないですね。
 金致淳 それと、青年会の母国研修。これも先ほど話した重層化のために体育会と共同でやったらいい。国体は人数を2倍、3倍にして、地方の体育をやらない子どもたちを連れていって、行進だけでもさせてあげればいいんですよ。それだけで人間が、がらっと変わるから。
 金英宰 それはとてもいい案ですな。
 丁海龍 私はある程度小さい範囲でやってきた。
 朴安淳 たしかに(丁海龍氏の出身地である)中北では実を結んでいますもんね。
 丁海龍 これを全国化すれば意識も高められるし、組織としての迫力も出てくる。組織を守るという観点でも青年会と重層化すれば体を張れる組織になる。そういう意味で体育会が青年会を包み込んで。リーダーになりうる人たちが体育会にはいるのだから。
 金英宰 オリニフットサルや名古屋のオモニバレーのような活動が全国に広がればいいですね。これを数年に一回でいいので全国から集めて大会をやったらどうか。国体派遣選手の選抜にもいいと思う。
 丁海龍 私たちが重点を置いてやるべきは教育。各地の民族学校で行っているスポーツ振興への取り組みを体育会がバックアップしてはどうか。昔は建国学園から多くの選手が国体に参加し、役員になってきたのだから。

長州力

金哲彦

秋山成勲

     
 

金城龍彦

新井貴浩

 
日本のスポーツ界でも活躍 在日の国体経験者

   体育会が最も力を入れている事業の一つが、毎年秋に韓国で行われる国体への選手派遣だ。その歴史は古く、1953年のソウル大会からで、サッカー選手と引率団の計25人だった。それから昨年まで、57大会に延べ約8600人を送っている。
 在日選手は当初、国内の選手らと競技に参加していたが、1989年に在外同胞同士で争う部門ができてからは、毎年同部門で1位争いを演じている。国体に参加した選手が成長して体育会や民団の活動に参加し、その子どもたちを引率して国体に戻ってくるケースも多い。
 国体は在日青少年の育成という点だけでなく、国家代表選手への道が開かれるという点でも意義を持つ。国体では国内選手と競う種目もあり、そこで関係者の目に止まる選手もいる。在日出身で韓国代表に選ばれた選手は数知れず、日本を舞台に活躍する選手もいる。
 日本で活躍する選手にはプロレスラーの長州力(郭光雄。73年釜山大会と74年ソウル大会のレスリング・グレコローマン100キロ級出場)、元陸上長距離選手の金哲彦(89年水原大会の陸上5000メートルと10000メートル出場)、総合格闘家の秋山成勲(91年全北大会と92年大邱大会の柔道高校男子出場)らがいる。国体ではないが、94年に行われた鳳凰大旗全国高校野球大会に在日選手団の一員として参加した金城龍彦選手と新井貴浩選手は、チームのベスト8入りに貢献。現在も日本のプロ野球界で活躍中だ。

 

銀1つ・銅2つ 太極旗揚げた在日メダリスト

 
 母国のスポーツ環境が整っていなかった昔、在日社会から韓国代表に選ばれ、五輪でメダルを獲得する選手もいた。在日のメダル第1号は1964年の東京五輪の柔道・中量級で銅メダルを獲得した金義泰(写真下)だ。
 次いで1972年のミュンヘン五輪柔道・中量級で銀メダルに輝いた呉勝立(写真上・右側)。呉勝立の銀メダルはミュンヘン大会における韓国選手団唯一のメダルだった。天理大学出身の呉勝立は、同じく天理出身で、96年のアトランタから3大会連続で男子60キロ級を制した野村忠宏を育てたことでも知られている。
 1976年のモントリオール五輪でも在日のメダリストが生まれた。柔道・中量級で銅メダルを獲得した朴英哲(写真上・左側)だ。講道館で一緒に稽古に励んだ山下泰裕は、「当時、一番強かったのは井上(朴)英哲さんだった」と回想している。
 それ以降在日のメダリストは出ていないが、現在も国体などで活躍した複数の在日選手が韓国で競技生活を送っている。彼らが韓国代表としてメダルを獲得する日がいつか来るかもしれない。

 

 体育会が最も力を入れている事業の一つが、毎年秋に韓国で行われる国体への選手派遣だ。その歴史は古く、1953年のソウル大会からで、サッカー選手と引率団の計25人だった。それから昨年まで、57大会に延べ約8600人を送っている。
 在日選手は当初、国内の選手らと競技に参加していたが、1989年に在外同胞同士で争う部門ができてからは、毎年同部門で1位争いを演じている。国体に参加した選手が成長して体育会や民団の活動に参加し、その子どもたちを引率して国体に戻ってくるケースも多い。
 国体は在日青少年の育成という点だけでなく、国家代表選手への道が開かれるという点でも意義を持つ。国体では国内選手と競う種目もあり、そこで関係者の目に止まる選手もいる。在日出身で韓国代表に選ばれた選手は数知れず、日本を舞台に活躍する選手もいる。
 日本で活躍する選手にはプロレスラーの長州力(郭光雄。73年釜山大会と74年ソウル大会のレスリング・グレコローマン100キロ級出場)、元陸上長距離選手の金哲彦(89年水原大会の陸上5000メートルと10000メートル出場)、総合格闘家の秋山成勲(91年全北大会と92年大邱大会の柔道高校男子出場)らがいる。国体ではないが、94年に行われた鳳凰大旗全国高校野球大会に在日選手団の一員として参加した金城龍彦選手と新井貴浩選手は、チームのベスト8入りに貢献。現在も日本のプロ野球界で活躍中だ。

写真で振り返る60年 東京五輪~現在

 

在日後援会による東京五輪に出場する韓国選手団の激励会(写真左)と出迎え風景 

   
張本選手の首位打者を祝いトロフィーを渡す力道山 1965年、冬季国体に初参加した在日選手団。撮影場所は江原道の大関峰スロープ前
   
 
2010年W杯でのKJクラブの応援風景
 


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