韓国スポーツの発展支えた体育会 元老たちが語る秘話(上)

在日本大韓体育会60周年-1948年のロンドンから2012年のロンドンまで 
日付: 2012年01月12日 17時14分

 2月10日に60周年記念式典を開く在日本大韓体育会(以下、体育会)。民団の65周年式典でも本国の要人から体育会の貢献に感謝の言葉があった。それを機に、黎明期を知る元老クラスの顧問に現役会長を交え、歴史と今後の活動展開などを語ってもらった。

正式な発足以前からも活動 黎明期

座談に花が咲いた

 体育会の誕生秘話について、朝鮮建国促進青年同盟(建青)や民団の創団と絡めてお話し下さい。
 李奉男 建青が設立され、海外のチームとも競技をしている中、どうしても体育会が必要ではないかという雰囲気になった。明大野球部の藤本英雄さん(李八龍。ピッチャー、のち巨人2軍監督)とか、同じく明大の李仁燮さん(バスケット部キャプテン。のち三井物産監督)が中心になってね。
 朴安淳 明大の方が多かったのですね。
 李奉男 そのとき李海炯氏(民団東京11、12代団長)が須田町の本屋街で食堂をやっていた。明大の近く、朝鮮体育会の建物の向かいのあたりでね。平壌出身で、1945年12月か46年1月に拳銃の暴発で事故死してしまった康基東という方もいた。彼が生きていれば大山倍達君(崔永宜。極真空手創始者)も金光宣君(サッカー選手。昭和15年国体の平壌チームキャプテン。1947年坂本事件で死亡)も彼に匹敵できなかったのではないかと思わせるほど傑出した人物だった。そこに蔡洙仁さん(体操選手。体育会初代会長)や崔銀珠さん(初期体育会事務局長)が加わり、1947年4月に在日朝鮮体育協会ができた。会長は蔡洙仁さん、副会長に李仁燮さん、趙ヨン石さん(事業家。財務担当)が理事で。
 体育会の中心というとサッカー関係者が多い気がするのですが。
 李奉男 後に民団中央の団長をやった李禧元さんや朝鮮学生同盟(学同)のメンバー、あるいは…
 金致淳 金世基さん(学生同盟創立の一人。のち民団東京副団長)もサッカー出身。それと、張昌寿。
 丁海龍 張昌寿はバスケット。彼は明大の李仁燮さんの後輩。それから慶応に移った。彼はその後、当時ソウルで一番だった和信デパートの社長の娘と結婚した。
 学同と建青では、どちらの力が強かったのでしょう。
 李奉男 対外試合なんかは建青が主体。そこに学同や一般の人も交じってきた。それから名古屋に朝鮮青年同盟という団体があって、名古屋で親善試合などもやった。そうしてメンバーを集めて外国人と試合もやった。朝連(在日本朝鮮人連盟。1945年10月結成)系との試合は金光宣君が仲立ちを務めていた。建青のチームはよく朝連のチームに勝ったよ。あるときは牛を一頭賭けて勝ったこともあるよ。
 朴安淳 おもしろい話ですね。
 金致淳 そうして組織ができていった。正式な組織のスタートは、銀座4丁目の服部ビルの中にあった韓国代表部(現在の大使館に相当)に移った1953年。柳泰夏参事官(のち代表部大使)が会長になって、在日本大韓体育会ができた。当時は朝連の人たちが多人数で襲って来たものだから、野球のバットを持って動員されたものだよ。もう一人葛弘基(のち弘報処長)という参事官もいた。
 朴安淳 葛弘基さんのことは知らなかったですね。
 李奉男 柳泰夏さんはもともと大統領秘書室にいた外務部の文化情報局長だった。それが目の手術のために日本に来て聖路加病院に入院した。それで、日本にいたかったものだから、大統領の奥さんにフルーツを何回も贈って参事官として残ることができた。葛さんはその前からいたよ。公使は金溶植さんだった。彼らに金を出していたのがアイリスカメラの金相吉(韓国学園初代理事長)と北区で団長をしていた李能相(権逸と同期。米軍のクリーニングを一手に引き受け)。そのほかは銀座に土地を持っていた李起東と朴正勲さん。
 建青をはじめとするメンバーによる黎明期を経て駐日代表部参事官が会長を務める体育会ができ、それを在日同胞が資金面でバックアップしていたということですね。
 朴安淳 本国体育会から正式に認准されたのは1953年ですが、それ以前から在日朝鮮体育協会などの形で動いていたので2012年を60周年としたのです。その60年前の1952年、ヘルシンキ五輪に韓国の選手団を送り出すにあたり、在日が費用などをすべて工面したんですね。当時は正式な海外支部という認識はないですが、その貢献が認められたことで53年に正式な承認を受けられたのです。
 李奉男 当時のお金で約1000万円。そのうち数パーセントは金相吉氏と李能相氏が出していますよ。
 金致淳 正式に認められたのは1953年ですが、いろいろあったんですよ。それを整理するのも仕事です。
 朴安淳 そうですね。正式な発足以前からも活動をしていたということですね。

羽田の滑走路で大喧嘩 50、60年代の国体

 1948年にはロンドン五輪がありました。ソウルから釜山、そこから船で下関に着いて、夜行列車で大阪に行って建国学園でブラスバンドによる大歓迎を受け、感涙にむせびながら横浜に向かい、船で香港、そこから飛行機でロンドンに行ったという。
 李奉男 横浜でユニフォームや道具を渡しました。当時はキャセイ・パシフィックの航空便もあったのですが、さすがにそれは高すぎるということで、船で香港まで行ってもらいました。
 金英宰 そのときの写真とユニフォームをたまたま韓国の写真店で見つけ、分けてくれないかと頼んでもらってきたものが体育会にありますね。韓国国体に行った1956年か7年のことでした。
 李奉男 ソウル大会のときか。
 金英宰 写真の下に韓国代表のロンドン五輪入場式と書いてあったのでわかったんですよ。ソウルの明洞の写真店の前をたまたま通りかかってね。
 丁海龍 53年の6月か7月か、国体があってサッカーチームを結成しなければならなくなった。金東春氏(学生同盟創立者の一人。中大サッカー選手。体育会副会長)が関係している天馬会館だったか…
 金英宰 そう、天馬会館。
 丁海龍 そこにサッカーの曺祥鉉とか田福栄、中大の柳さんなんかが住んでいなかったか。
 金英宰 金世基もそこにいた。
 丁海龍 私は在留許可が下りていなくて、そこから通ってチームに合流していた。金容植氏(サッカー選手。のち韓国チーム総監督)の息子もいた。そこで寝泊りしながらサッカーチームの養成をした。その年の9月に国体に行った。最初は在留許可が下りていないものだから行けないと思っていたが、1週間前に在留許可が下りたので急いで行った。
 ユニフォームや道具などはどうやって揃えたのですか。
 丁海龍 ユニフォームはあったかな?
 金致淳 ありましたよ。今で言うジャージーね。
 金英宰 私は第36回、丁さんは35回の国体に行っているんだけども、大学1年のとき、兵庫の鄭判助先輩(大阪、神戸など関西のまとめ役)から聞いたということで東京から連絡があり、「来い」といわれた。そこで曺祥鉉のところ(天馬会館)に泊まって、田福栄の奥さんが料理を作ってくれてね。東京工大の監督だった金逢吉氏のツテでそこの運動場を使わせてもらって。田福栄なんかと会うと、今でもその話になりますよ。奥さんがきれいだったと(笑)。
 丁海龍 あの方は本当に尽くしてくれましたね。
 金英宰 当時はユニフォームやジャケット、ワイシャツ、ネクタイまでも(体育会が)作ってくれた。韓国に着くと鐘路から東大門まで行進ですよ。ところが行進中に雨が降ってきて、宿舎に帰ったらみんなのシャツにジャケットの色が染みてついてしまっていたんです。当時はそこまでいい材料を使っていなかったからね。
 丁海龍 国体関係で忘れてはいけないのが射撃。日本から弾を持ち出そうとしたら、重くて飛行機が飛ばないということで、積んでいけ、降ろせと、滑走路で大喧嘩になった。大阪の在日射撃協会の初代会長が権田さん、布施交通社長の権宗葉なんだけど、彼が積むだけ積んじゃったんですよ。それを大会で使うだけでなく韓国に持っていって売っていた(笑)。
 金致淳 裵哲(玉鉉)が総合監督だった。金己哲(のち民団東京団長)が選手団長で行った全州大会のときだったかな。結局半分降ろして飛ぶことになったけど。
 金英宰 当時は本国の射撃協会にさえ弾がないから、こっちからたくさん持っていかなければいけなかった。それ以上持っていって商売する人もいたけれど(笑)。
 金致淳 当時は現金も持っていけなかったですから、そうして現地での活動費を工面しなければならなかったという側面はありましたけれどね。ポッタリ(行商)の元祖は国体選手だよ。
 丁海龍 国体に行くために集まると、先輩が「君の荷物はそれだけか」と聞いてくる。「そうだ」と答えると、大きな荷物に「丁海龍」と書いて「これは君が預かれ」といわれた。
 金英宰 私も国体のために大阪を発つ前、電話で荷物の大きさを確認された。東京についてみると、人間が3人くらい入りそうな荷物を3つ渡された。
 丁海龍 私も3つだった(笑)。
 金英宰 それがいい小遣いになった。大卒初任給が8000円くらいのときに、トランク1つで1万5000円もくれたからね。先発隊が行って、税関職員に話を通すまでの徹底ぶりだった(笑)。
 丁海龍 国体を商売のために使おうとする人もいたからね。それが目に余るようになったものだから、それを注意した。こうして事態は正されていった。
 金致淳 そういった中で、蔡洙仁氏のようにスキー板を集めて本国に持って行ったり、金荘煜団長(明大。スケートキャプテン。のち大韓スケート協会会長)のように野球道具を囚人の更正プログラムに使ったりする人もいた。ただ、ポッタリの問題が収まると、次は再入国許可を取れない人のために体育会が利用された。体育会なら90%は再入国許可が出る。韓日国交正常化くらいまではそれで金をもらって国体選手として本国に連れて行くこともあった。

写真で振り返る60年1948年~60年代

 
1948年のロンドン五輪に出場するため、横浜港から出発する韓国選手団 1952年ヘルシンキ五輪に出場するため、ソウル飛行場から出発する韓国選手団
   
1956年8月、初訪韓した在日学生野球団を大統領府で迎える李承晩大統領(前列中央)。学生野球団は後に多くのプロ野球選手を輩出した 1958年に開かれた東京アジア大会に韓国代表として参加した建国チームは日本を抑えて銅メダルを獲得。その後、学生ホッケーの発展に大きく貢献した
   
体育会結成の礎となった、建青の空手部員たち。最前列中央は極真空手の創始者である大山倍達氏 1969年に体育会を通じてプロ野球の東映が訪韓した時の写真。(左から)張本勲、金田留広、白仁天選手


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