「紅衛兵」量産時代

日付: 2011年10月23日 18時16分

柳根一
選挙の季節になると決まって世代間の対決が話題になる。20~30代が投票の時、両親や先生、50代以上に対して「反乱」を起こすということだ。もちろん、それなりの一理や良心の自由そのものは尊重されねばならない。だが、彼らの動向には教育的に、そして批判的に指摘してあげねばならない側面もない訳ではない。その世代の最も大きな危険性は、恐らく20代に初めて分かったことを「全部分かった」と断定したい誘惑ではないだろうか?
ヘルマン・ヘッセ(左写真)の<デミアン>の主人公は、死ぬまで数多くの悟りの段階を経たが、その時ごとに「これではない筈だが...」という懐疑で悶えた。その煩悶は新しい悟りを誘発した。このパターンが死ぬまで繰り返された。
<デミアン>はもちろんフィクションだ。しかし、若い歳で私は全部知っていると断定するなという警鐘としては良い。20代には誰もが1次的信念を持つようになる。「ア、人生というのは、世の中というのはこういうものだね」... ところが、その時からが本当に重要だ。その1次的信念に閉じ込められてはならないのだ。
肯定、肯定の否定、否定の否定、新しい肯定、そしてその持続的な反復...これが求道の道なのだ。20代の時の1次的信念を「始まり」と見ないで「終着駅」と断定するところに青春の陥穽があるのだ。
師匠、勉強、読書、体験、思考の訓練は、この20代的な陥穽の危険性を悟るようにしてあげようとするもの、すなわち教育だ。この頃の青少年たちにこういう教育が果たしてあるのか? 代わりに「洗脳」、扇動、プロパガンダ、切り端の大衆演芸ばかりが溢れている。公教育の現場では師匠の教導権を「学生の人権条例」を以って圧倒しようにとする試みすらある。
「(新羅、百済、高句麗の)3国時代」を背景とするある史劇では、主人公が「搾取のない世の中を...」云々する。その時代に「搾取」という言葉があっただろうか? にも拘らず、作家と演出者はそういう言葉をさりげなく入れる。洗脳である。こういう洗脳を受けた青少年が「私は全部分かった」と断定するのはそんなに難しいことではない筈だ。その上SNSだの、サイバー空間だの、何だのとして青少年は師匠、勉強、読書、思考の訓練を離れて流行的な渦巻き側にさらに遠くへ流されている。
扇動家、陰謀家+ハイテクの通信手段+切り端の大衆演芸が、21世紀の紅衛兵症候群を拡散させている時代-「考えている人々」がこの渦巻きの中で青少年らを不正確な1次的信念の危険性から保護する方途は本当にないのか?

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