李容勳と安哲秀

日付: 2011年09月20日 01時02分

柳根一
李容勳大法院長のある講演内容を伝えて聞いたら、彼と安哲秀教授は似たところがあるように思える。左でも右でもない第3の立場を表明する点でそうだ。だが、この話はナイーブでアマチュア的なところがある。小耳にはもっともらしく聞こえるが、糺して見るとあまりにも単純だ。
「左でも右でもない」がそれなりに成立つ場合は二つがあり得る。まず、人間は多様性、矛盾、溌刺さ、生命の躍動を内包した「閉じ込められない」存在そのままで見るべきで、左だの右だのと社会科学的定規だけで裁断してはいけないという「哲学的人間学(philosophical anthropology)」の観点だ。
二番目は、左をひょっとして極端社会主義として看做し、右をひょっとして頑強な権威主義と見る場合(これはもちろん精巧でない、非常に粗っぽい設定だ)、人によっては「私はその二つのどちらでもなく、自由主義者、民主的保守主義者、中道左右、社会民主主義者」くらいだという時の「左でも右でもない」という自任があり得る。
しかし、以上の立場のようなものが最後まで一貫性を立証するためには、それこそ最後まで第3の独立変数として残らなければならない。そうでなく、どちらかの一方に背を向け、別の一方に握手しようと手を差し出せば、その「左でも右でもない」という位置は地図から消される。
安哲秀教授は朴元淳氏の肩を持ってハンナラ党を歴史の膺懲を受けなければならないと言った。これは彼が第3の独立変数であることを終了したことを意味する。李容勳前任大法院長は安哲秀氏のこういう選択を相変らず不偏不党だと見るのか? 考えは「左でも右でもない」といいながら、行動は「第3」でなく二つのうちの一つに明らかに肩入れしたのでないというのか?
このように、李容勳前任大法院長の「左でも右でもない」に関する説明の論理は厳密性を欠いている。両方のプロフェッショナル戦士たちがぶつかる乾坤一擲の対決場で、「左でも右でもない」という立場は、もちろん知識人の頭の中の観念や抽象としてはあり得る。しかし、そうしたいなら最後まで選択をしてはならない。選択をしておいて「これでもあれでもない」というのはおかしくないか?
柳根一の耽美主義クラブ http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2011.09.17 10:56

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