無料の昼食に「自由」を売るのか

「無償給食」問題は、「社会的共同食卓制」へ移行しようとする全体主義者たちと、「奴隷への道」を拒否する自由民の間の闘争だ。
日付: 2011年08月24日 04時05分

黄晟準(元朝鮮日報モスクワ特派員)
ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)の「選択する自由」(Free to Choose)を読んで。
「無償給食? それが可能なの?」
最近カナダを訪問して10年前にアフガニスタンで一緒に仕事をしたことのあるカナダ人の記者とビールを一杯した。この友人は、記者、作家、社会運動家などの色々なカナダ人の友人たちを連れてきて、過去アフガニスタンでの話をおつまみにして楽しく話をした。
私が、韓国での「無償給食」論議に対して話を持ち出す時までも、私はこのカナダ記者を「無償給食」への賛成者だと思っていた。この友人は、アメリカの保守主義陣営に対して非常に批判的ないわゆる「米国式リベラル」だったし、私はカナダ、オーストラリア、ニュージーランドのような福祉国家では当然「無償給食」をしているはずだと独り合点に勘違いしていたからだ。
ところが、実はカナダ、オーストラリア、ニュージーランドでは無償給食をやっておらず、自ら「進歩」と主張しているこのカナダ人記者の友人も無償給食に反対していたのだ。いや、その場にいたカナダの進歩的知識人たちは「無償給食」という概念そのものに驚愕した。
「無償給食」という概念に驚愕したカナダの歩的知識人たち
むしろ慌てたのは私だった。彼らが無償給食に反対する理由は政府の財政能力のような枝葉的(?)な問題でなかった。
「無償給食? そんな全体主義的な発想が自由大韓民国では可能なの?」 私の下手な英語のために、私が間違って表現したのではないかという表情を浮かべながら、この日一緒にいたカナダの進歩知識人たちは私を取材(あるいは取調べ)し始めた。正直に私も彼らの観点を当初は正しく理解できなかった。
初めから異なる発想法を以って問題に接近していたことを悟ったのは対話がだいぶ進んだ後だった。彼らが「無償給食」に反対する理由は、いや「無償給食」という概念自体を理解するか受容れられない理由は、「選択の自由」や「個人の自由」という観点から出発したものだった。「いや、いったいどうすれば政府や学校当局が一律的に学生たちの食卓を決められるのか」とのことだった。言い換えれば「豚肉が好きな学生もいれば、豚肉そのものを食べない学生もいるはずなのに、メニューは誰が決めるのか」ということだった。
「学生たちの多様な口当たりや要求を無視し、どのように画一的(あるいは全体主義的)な食卓が用意できるのか」に対して彼らは本当に理解できなかったのだ。彼らには「無償共同給食」というのは、アフリカやアフガニスタンの難民村でこそ存在できることであって、K-Popの国家であり、G20の議長国を務めた大韓民国で考えられる発想ではなかったのだ。
彼らとの対話は、私がしばらく忘れていたことを思い出させた。
2002年のことだった。約10年間の海外生活を終えて、ソウルに戻ってきて過去の「同志」たちと友誼を確かめる時だった。当時はお互いの考えを互いによく知らなかったために率直な対話が交わされていた時だった。私は私の思いで(旧友たちが)「歳月が経ったから、物事は分からなくても垢でも付いただろう」と思っていたし、この過去の友人たちは彼らなりに私(筆者)が暮らしのために朝鮮日報で仕事したものの、それでも何が正しいのかに対しては彼らと考えを共にしていると信じていた時だった。
「全教組」の活動家として活動するある友人が話した。「小ブルジョア家族制度の撤廃と社会的共同食卓制へ進むための核心中間課題として無償給食闘争を展開せねばならない」。率直に当惑した。まだああいう「化石」が存在するとは! 1980年代の熟成されなかった状態でむやみに吐き出した理念を今もあのように純潔(?)に守っているとは!
ところが、問題は「化石」が博物館に保管されているのではなく、映画「ジュラ紀公園」のように生命を得て蘇ってわれわれの子供たちの脳髄に「原始共産社会」を理想郷として注入させている危険な現実だった。そうだ! この対話を忘れていた。今回の「無償給食」問題は、単純に国家財政が無償給食を許すのかどうかの問題でないのだ。「社会的共同食卓制」へ移行しようとする全体主義者たちと、このような「奴隷への道」を拒否する自由民の間の絶対に妥協できない闘争である。
生きている「運動圏の化石」ら、彼らの「無償給食」議論
もちろん、自由は尊いだけに、同時に享有することも難しいのだ。誰でも自由を楽しめないのが客観的な現実でもある。一切れのパンも得られない者らが自由を語れば贅沢なのかも知れない。それで「自由からの逃避」現象が起きたりもする。しかし、今大韓民国は「キブ・ミ・チョコレート」を乞う国ではないではないか? なのに、安モノの昼食に「自由」を売ろうとするとは。
旧約聖書に出るエサウがしるこ一杯で長子権を売り渡した愚かさと何が違うだろうか。国家や社会が保護すべき人々もいるだろう。お昼一食が食べられない欠食児童もいる。しかし、彼らの問題と全体学生の問題は厳として違うものだ。むしろ全体学生に教えなければならない教訓は「ただの昼食はない」という自由主義の経済学的観点である。
ソウルに戻ってきて書斎を調べて見たら、片隅にホコリが白く積まれている本が一冊あった。ミルトン・フリードマン夫婦が一緒に書いた「選択する自由」だった。ホコリを払い読み直した。「自由と経済との関係に対する古典的探求」というこの本の副題がすでによく指摘している通り、問題は「自由」だった。そういう自由を放棄する瞬間、経済的繁栄も消え、私たちはハイエクが警告したように、「奴隷への道」に行くしかないのだ。
幸いこの本は翻訳されて自由企業院から出版された。だが、しまった! 絶版されたという話を聞いた。出版もされずやっと出版されても、あまり売れないため絶版されれば新しく刷らないのが保守、あるいは古典的自由主義陣営出版界の現実だ。

そうだ! この本が母胎となった同じ名前のTVシリーズ物がある。そしてこのシリーズ物も翻訳されている。本を読むことが負担になる人々は「選択する自由」のビデオテープやCDを購入してTVやコンピュータで見るのも良い。 

www.chogabje.com 2011-08-20 00:38

閉じる