大学院生 金文鎬
東洋平和論について
「義士」だとか、「テロリスト」というといきおい狷介かつ偏狭なナショナリストをイメージしやすい。本書からも明らかなように、結論的に言って、安重根はけっしてそれにとどまらない器量と幅広い人間性を持ち合わせている。一幅一幅の揮毫から窺えるのは、雄渾な筆遣いから発揮される何とも言えない、迫力というか気概である。死に急ぐようにして生きたわずか30年の生涯で、いつどこでどのように学んだのか、博学多識には驚くばかりだ。
安重根の父、泰勲は科挙に合格した進士であり、彼もまた祖父の膝元で長く漢学に親しみ、儒教的素養を身につけてきた。李朝末(韓末)において、両班(上層貴族)の子弟は大なり小なりそういった教育を受けることが普通だった。
日本と比べると、「蘭学」なり「英学」を学ぶようになるのはもう一世代以上も後になってからである。年代的に言うと、1880年代後半に入ってからだ。具体的には、李能和や申翼煕らの世代に入ってからであり、いわゆる外国語学校には日本人教師も招聘している。
安重根はしかし、儒学だけでは満足しなかった。父に比べて儒学については及ばないとしても、新しい学問については意欲旺盛で、それを獲得することにより自己を確立し、国家と民族を建て直そうとした。だからと言って、儒学を軽視し放棄したわけではない。彼の精神構造が儒学によって基礎づけられていることは、本書によってもよく分かる。それはあくまでも効用としての学ではなく、礼に基づく人生の王道を歩むためのものではなかったのか。それに多くの人たちが惹かれたのであろう。
しかしこれだけに満足できず、世界の情勢にも広く目をやり、とくに韓国が帝国主義の潮流のなかで、いかにして独立するかということに腐心している。彼の「東洋平和論」はその具体的な表れであろう。
後に彼自身が刑場の露となった旅順に、韓中日の優秀な子弟を集め、一種の軍官学校を設立し、三国の若者たちが共に学び、共に啓発する場を構想していたと言う。若者たちは互いに、自国語以外に二カ国語を修得し、「共存共栄」の志を体得し、東アジア独立の中核を成そうとしたと言う。もとより、これには漢学や儒教が基礎になっていたことがあろう。
安重根はこうした具体的な構想を明らかにする時間的な余裕を当初は与えられていたのに、日本側はどうして慌しく処刑を急いだのか、悔やまれて仕方ない。
今の私と比べ、そう年の差のない安重根がこれだけのことをやってのけたというのは驚きである。32歳という短い生涯ではあったが、よく動き、よく考え、よく書いたことに、ただただ頭が下がる。