「冒険家」朴正煕

日付: 2011年03月25日 01時12分

柳根一
中央日報に掲載されたハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授の「朴正煕モデル」に対する説明が興味深い。朴正煕モデルは、普通の人ならやれないし、試みもしないはずの高危険の冒険を敢行した彼の独特のリーダーシップの所産だというのだ。その時機会を逃したら韓国の産業化は難しかったはずとボーゲル教授は見た。需要が拡大されていたし、技術移転が可能だった当時の条件はその後は消えたという。その代わり、彼の冒険は高費用、すなわち多くの犠牲を伴ったとも言った。
この説明の中で最も核心的なことを選ぶなら? 恐らく「普通の人ならやれないし、試みもしないはずの...」という件ではないだろうか。産業化の環境条件があったのは事実だが、当時朴正煕の産業化は誰でもそうすれば当然できることができたものと言うより、「オイ、如何にしてあのようなベッティング(betting)が的中しただろう?」というきわどい「ロシアン・ルーレット」だったという話だ。それでボーゲル教授は「冒険」という言葉を使った。
「冒険」は、「現代グループ」の鄭周永会長の逸話からも見られる。鄭会長が「これやれ」と言うと、参謀たちが「難しいです」と答えたりしたが、そのたびに鄭会長は「やってみたの?」と問返したという。他の人ならやれないし、試みもしないことを彼はやって的中したという話だ。
他の国でも軍部のクーデターもあったし、権威主義があったし、近代化の意志もあった。フィリピンのマルコスがその一例だ。だが、彼は失敗した。冒険をしなかったし、機会捕捉もできなかった。何よりも彼は途中で個人的にも腐敗してしまった。

こういう説明を聞くと歴史というものを考え直すようになる。歴史はある一般法則の所産でなく、ある特殊な個人の意志の産物という話になるから。しかし、そういう特殊な事例はいつでもあるものではないはずだ。環境条件があり、その条件(機会)を機会であると分かる特殊な冒険家がいてこそ可能な例外的な現象であろう。何れにせよ、そのようにやって朴正煕と韓国人は産業化の夜11時発車の車に乗ったし、12時発車の車を中国の鄧小平が乗ったわけだ。

「高費用と多くの犠牲があった...」という件では、われわれ韓国の現代史の苦心惨憺した風霜が新たに思い出される。「ノーペイン、ノーゲイン(no pain, no gain)」と言ったっけ?
ここでどういう結論を下すべきか? 栄光と苦難を同時に愛情で抱くべきだろう。節目ごとにわれわれがその時このように苦労もしてこのように成遂げたりもした...と思いながら。苦労ばかりして成遂げたことは無い事例が如何に多いのか。今(金氏王朝の)北側だけを見てもだ。これからは後代の責任だ。上手くやることを祈願してあげるしか。
柳根一の耽美主義クラブ http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2011.03.20 07:52

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