趙甲済
アメリカの週刊誌タイムは1999年、マーガレット・サッチャーを20世紀の20大政治家の1人として選んだ。「サッチャーリズム」という言葉を残すほど、サッチャーの政治的遺産は英国だけでなく世界のいたるところで今も大きな影響力と想像力を行使している。法治主義、小さい政府、市場経済、民間の自律と責任を強調したサッチャーの新保守主義的改革は、韓国でも有力なモデルとして研究されている。
サッチャーは、恐らく最も多くの名言を残した政治家の一人として選ばれる。彼女は、話を明快で挑戦的にする人だった。サッチャーは1987年9月23日、「ウモンズオウン(Woman"s Own)」という雑誌のダグラス・キー記者とインタビューの中でこういう言葉を残した。要旨はこうだった。
「われわれは、あまりにも長い間、あまりにも多くの子供たちにこのように間違って教えてきたと思います。『私の問題は政府が解決してくれなければならない』、『私に問題があるが、政府を訪ねれば経済的支援をしれくれるはずだ』、『私は家がない。政府が家を用意してくれねばならない』というふうですね。彼らは自分たちの問題を社会に転嫁しています。ところで、社会が誰ですか? 社会? そんなものはありません! 個人としての男と女があり、家族たちがあるだけです。政府は(社会でなく)人々を通じてのみ仕事ができます。人々は、まず自らを助けるべきです。自らを助け、隣を助けるのは皆さんの義務です。生とはやり取りするものです。与えることなしに貰うことばかりを考えてはなりません。」
「社会? そんなものはありません!」という言葉が有名になった。韓国の自称「進歩的」人々は、人間のあらゆる問題、その責任と解決策を個人でなく社会に転嫁する。30人を連続殺人した犯人の責任も社会の冷遇にあるという。北韓の餓えと殺戮も金正日でなく国際社会に責任があるという。「社会」という概念を作ってすべての責任をそこに押し付けては「私たちは潔白だ」と軽い気持ちになる格好だ。こういう偽善的態度に対してサッチャーは容赦なく批判を加えたのだ。
社会という単語は東洋で作られたものではない。日本が西欧の文物を受入れながら、Societyをそう翻訳した。societyは、ラテン語のsocietas、sociusに語源を置く。本来は友人、戦友、わが方という意味だ。学問的には人間関係で結ばれた非政府的組織を意味する。「モドムサリ(*併せ暮らし)」というハングル翻訳が正確な気がする。社会という単語は意味が曖昧で、広範囲で、使う人の思う通りに悪用もされる。
「社会? そんなものはありません。」
サッチャーは、社会という言葉を悪用し、個人の責任を覆おうとする人々に直撃弾を撃ったのだ。