■土の悲しみ 金鶴泳

私小説の域を超えた短編小説の傑作
日付: 2011年01月19日 00時00分

シングルカット社刊 定価=1200円(税別)
 「多くの日本人が朝鮮人を偏見の目で見ているように、ぼくもぼくの中の朝鮮人を偏見の目で見ていました。朝鮮人と日本人とのあいだに、落差といったものを感じていました。その落差が、とりもなおさず、ぼくとあなたとを隔てている距離のように思われました。」と小説の主人公である在日二世の松村という通称を使っている「吃り癖のあるぼく」は呟いていた。
 松村という通称を名乗る「ぼく」(本名李こと金鶴泳)は吃り癖が意思伝達の妨げの一つになったのか深い思いを寄せている日本人女性との隔たりが埋められない。彼女から婚約を告げられたとき、愛しているという言葉すら出せなかった松村が、衝動的に「いきなり道端の巨きな立木に押しつけ、強引にその唇に唇を重ね」るが、彼女も拒まなかった。その後、結婚した彼女は自殺。そして作家金鶴泳は、後を追うかのように1985年『土の悲しみ』を書き残して自殺。
 主人公松村は「ぼくは暗い家庭に育ちました。冷たい家庭、寂しい家庭などというものではなく、母に対する父の暴力の絶えない、恐ろしい家庭に育った」とその出自を語る。父は戦後、鉄くずや空き瓶回収の古物屋後に焼き肉屋を開き、松村はT大学(東京大学)の博士課程に進むエリートであるが、夜になると暴君に変身する父への嫌悪感が募って父と息子は殴り合いを演じる。
 やがて、松村は父が暴君になるのは「土の悲しみに原因する疼きを捩じふせようとした。それが暴力に駆り立てた」「父はその強靱な意志力によって、疼きを捩じ伏せるのに成功してきた人間」だと気づく。一世たちの暴君に変身する心の葛藤、歩みを淡々と語る。
 表題の「土」とは定住している日本と祖国の二つの土にちがいない。二つの土のはざまで自己のアイデンティティーを形成し続け、その暗いトンネルを抜ける「ぼく」の心は悟りを開いたようにすがすがしく、さわやかで、もの悲しい。
 遺稿に出あった鳥居昭彦さんは4半世紀後本書を第一作とする出版社、シングルカット社を起す。本書は金鶴泳の体験をもとにしているが、私小説の域を越えたエッセイ風の純文学のジャンルを拓く、短編小説の傑作である。
 (キム・ヤンギ比較文化学者)

金鶴泳(キム・ハギョン)
 1938年9月14日―85年1月4日。本名は金廣正(キム・クァンジョン)。群馬県生まれ。東大大学院化学系研究科博士課程中退。66年「凍える口」で文藝賞受賞。以後作家活動に入る。「冬の光」「鑿」「夏の亀裂」「石の道」の四作が芥川賞候補作となる。吃音者・在日朝鮮人二世という苦悩の中、独自の世界を描いた。


閉じる