趙甲済
韓半島の冬は寒い。特に「6.25熱戦」が真っ最中だった1950~1951年の冬は寒かった。この時期に対する米軍たちの回顧談で最も頻繁に出る単語が「cold(寒い)」だ。米軍が戦った戦闘の中で最も気温が低かったのが6.25の時だった。
今日、ソウルの最低気温が零下17.6度という。今北韓同胞たちは、われわれが「6.25」の時体験したその寒さをほとんど裸で耐えている。寒くて腹がへった時期は南韓では追憶になったが、北韓同胞には現実だ。口さえ開ければ祖国を呪う南韓の一部の人々も、何人かの米国人がいなかったら、今の北韓同胞のように寒さに震えているはずだ。
「知りもしなかった国の、会ったこともない人々のために参戦を決断した」トルーマン大統領(*右写真)。軍事専門家たちのほぼ一致した反対を押切って仁川上陸作戦を敢行して戦闘勢力を逆転させたマッカーサー将軍。洛東江防御線と釜山橋頭堡を確保して反撃の力を蓄積したウォーカー米8軍司令官、彼は1950年12月に韓国軍のトラックに打つかって事故死した。中共軍の大攻勢時期にウォーカーの後任として赴任して国連軍の総崩壊を止めソウルを再奪還したリッジウェイ。操縦士だった息子を北韓上空で失った米8軍司令官のバン・プルリト(Van Fleet)将軍など等。
私はリッジウェイ(Matthew Ridgway)将軍の韓国戦回顧録を読んだ時何度も感動した。文明国家の将校たちが持った紳士道が感じられたためだ。クリスマスの直前戦死したウォーカー将軍の後任として8軍司令官に任命された彼は、奥さんにまともに別れの挨拶もできず東京を経て大邱に飛んでくる。最初に彼がやったことは李承晩大統領を表敬することだった。李大統領は米軍が中共軍の総攻勢に屈服して韓国を放棄し撤収するのではないかと大心配だった。(*左写真は戦場のマッカーサー元帥とリッジウェイ将軍)
<私はこの頑強な戦士に会って、私が米8軍を日本に引き揚げするためにきたのではないことを話したかった。彼は若干消極的に私を迎えた。私は握手しながら心からの言葉を言った。話を遠まわしで言える時間もなかった。
「お会いできましてうれしいです。大統領閣下、ここに来てうれしいです。私はここに留まるために来ました。」
この話を彼は待っていたようだった。彼は太陽のように明るく微笑みながら目に涙が浮かんだ。彼は両手で私の手を握った。>
ソウルを放棄した直後、リッジウェイ将軍は韓国軍の丁一権参謀総長に送った親書でこう言った。
<ただ一つの究極的な目標があるなら、それは貴国民の自由を護り抜くことだ。この目標を達成するためにわれわれは共に戦わなければならない。>
リッジウェイ将軍は、1951年1月21日苦戦中の米8軍に、「われわれは、なぜここで、何のために戦うのか」という題名の書信を送る。この文でリッジウェイ将軍は、「われわれは、韓国の村や都市を護るためにここにあるのではない。われわれは韓国人の自由を護るためにだけ戦うのでもない」と強調した。続く文の要旨はこうだった。
<核心的な問題は、西側の文明が共産主義の挑戦を克服するか、それとも捕虜たちを射殺し、市民たちを奴隷化し、人間の尊厳性を無視する支配集団が、個人や個人の権利を神聖視する政府を倒すかである。われわれの同盟国である韓国の自由だけでなく、われわれの自由、われわれの自主独立と生存のためにわれわれは戦うのだ。結論的に言うと、共産主義と個人の自由の中で両者択一するために戦うのだ。われわれは最大の危機に直面しているが、同時に最善の機会を与えられた。軍人という職業の名誉を高め、われわれを信じて支援する人々に最善の義務を果たす機会がきた。>
1951年1月1日、彼はソウルの北方に行って後退する韓国軍を見た。彼は、回顧録の中で韓国軍が無秩序に武器も捨てて指揮系統も崩れたまま退却する様子を描写した。リッジウェイ将軍が車から降りて韓国軍の敗走を止めようとしても、恐怖に駆られた韓国軍は米軍司令官の話も聞こうとしなかったという。リッジウェイ将軍は、「1.4後退」の時見た韓国人たちの惨い避難行列に対してこのように描写した。
<その場面は生涯忘れられないだろう。男たち、女たち、子供たち、ひげを伸ばした老人たち、息子の背中に子供のように負んぶされた婆さんたち、彼らは言葉もなく漢江を渡る自分たちの順番を待っていた。彼らの唯一の目的は、共産主義の暴力から逃れて、しばらく味わったその自由を求めて行くことだった。>
この時、米軍は後退しており、リッジウェイ将軍は兵士たちと共にテントで生活しながら米軍の士気を回復させ反撃のチャンスを作るために苦闘していた。心の余裕がない時も、彼は韓国人への礼儀と同情心と配慮を維持した。彼の回顧録には苦しんでいる韓国人たちへの言及がしばしば出る。紳士とは厳しい条件に置かれた時、品位を保つ言行の持ち主だ。
同じ時期に、毛沢東は人命損失に対しては一切の考慮なしで作戦を企画し遂行した。中共軍や北韓軍側の記録からは人間的配慮が全く見られない。戦場でも人間の生命、それも他国民の生命を大切にしたリッジウェイ将軍。彼は1951年春の反撃作戦を通じてソウルを収復することで、韓国放棄を検討したワシントンの政策立案者たちを安心させ、韓国を護り抜いた。
この寒い冬、韓国人たちが暖かい週末を過ごせるようにした人々の中の1人がマチューB. リッジウェイ(Matthew Ridgeway)将軍である。彼に感謝する心はわれわれを一層暖かくしてくれるはずで、彼を呪う人間たちは遠からず不幸に会うだろう。