「黄金の小牛」を信じる子供たち

日付: 2010年12月08日 23時18分

柳根一
モーゼがシナイ山から戻って見ると、イスラエルの人々が完全に狂っていた。黄金の小牛を作って崇拝しながらエホバ
()を忘却したのだ。イスラエル人の堕落は彼らが数十年後約束の地に入るまで何度も繰返された。それこそ集団忘却だった。一つの共同体が自らのアイデンティティと歴史と存在理由をこのように丸ごと忘れることがいくらでも可能だという事例だった。
 
近来のわれわれが建国60余年ぶりにそういう集団忘却に陥っていたとすれば誇張過ぎだろうか? 「延坪島砲撃が北韓側の仕業でないそうよ」と話したという小学生のことを伝えて聞くと、われわれがまるで数千年前のイスラエル人たちの「黄金の小牛」事件に似ていつつあるような気がする。なぜこうなったのか? 教育がなされなかったためだ。いや、教育自体が反逆したためだ。次世代国民に十誡も、神様に対する尊敬も、民族の理想も、敵が誰なのかも、自身の歴史も教えなかったのに、どうして彼らの精神が正常であることを望めるだろうか?
 
李明博大統領は、経済以外のもう一つの「共同体的生存の要件」である「意識戦線」に対して盲目だった。その盲目が、「中道実用」という言葉で表出された。彼は国家というものが哲学と価値観と集団意識で支えられるということに対して無関心だった。彼は、国家と政府と大統領職を中立化させようとした。大韓民国の建国当初の存在理由を忘却してはいけないと考える人々と、それを「黄金の小牛」で取替えようとする人々の間に立って、自身はただ経済だけを取りまとめれば国が維持されるはずという、もうろうとした状態に浸っていた。
 
それで彼の政府は、「延坪島が北韓の仕業でないそうよ」という事態に対してこれといった対策が無い。教育など、公共部門に打ち込まれた反逆の五寸釘を抜くつもりも、それを抜くのが大韓民国の死活的な条件という認識そのものがない。彼の政府は、よく「理念の時代は終わった」と言う。金正日を「進歩」だと盲信する迷信から覚めねばならないと言ったら、それは正しい話だ。だが、李明博政府はそのように特定せず、理念そのものから離れねばならないというふうに信じ言ってきた。無知この上ない話だった。
 
イスラエル人として「黄金の小牛」を盲信する間違った信仰に陥ってはならないと言わねばならなかったのに、ちょうど「信仰というもの自体を馬鹿にせよ」というふうに話すと、彼らがどのようにイスラエル本来のアイデンティティに対する集団忘却を避けられただろうか? 個人的な魂と共同体的な魂を失い忘れた個人や国民は、ネアンデルタル人のように淘汰される危機を避けられない。満洲族が今どうなっているのかを顧みることだ。
 
柳根一の耽美主義クラブhttp://cafe.daum.net/aestheticismclub 2010.12.07 09:44

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