ジューコフ元帥がベリヤに拳銃を向け「手を上げろ!」

毛沢東の死後、文化革命を主導した4人組は一ヶ月以内に除去された。スターリンの死後3ヶ月内にベリヤは除去された。金正日死後金正恩は何ヶ月(あるいは、何年)を持ちこたえるだろうか?
日付: 2010年10月20日 18時52分

趙甲済
1953
3月、ソ連の独裁者スターリンが死んだ時、形式上の後継者はマレンコフ首相兼第1秘書だったが、実権は秘密警察の総帥・ベリヤ(右写真)が握った。ベリヤはスターリンの下で粛清を指揮して数百万人を殺し収容所に送った悪魔だった。ベリヤはスターリンが死ぬと自分の世になったと喜んだ。
 
ベリヤはあれほど崇拝したスターリンを公に非難しながら同僚の政治局員らの歓心を買おうとした。ベリヤはマレンコフとフルシチョフを抱き込み、三人がソ連共産党を指導しようと誘惑した。マレンコフは事務的な人物だったが、フルシチョフは正義感と勇気の所有者で権力闘争の秘訣が分かる人だった。
 
フルシチョフは、まずマレンコフを抱き込み、ベリヤを除去してこそ私たちが共に生き残れると説得するのに成功した。他の政治局員たちもベリヤの危険性をよく知っていたが、秘密警察と警護兵力を掌握した彼を恐れた。フルシチョフはすでにブルガーニンを抱き込んだ状態だった。フルシチョフが主導して他の政治局員の抱き込み工作が行われた。盗聴を憂慮したフルシチョフは陰謀を速かに進めてこそチャンスがあると判断した。
 
フルシチョフ(左写真)は、一方では政治局委員たちにベリヤや孤立していることを見せて勇気を与えようとした。彼は、政治局会議の時何度もベリヤの提案を正面から反論し、その都度他の政治局員たちが同調した。
 
ベリヤを恐れた全政治局員がフルシチョフとマレンコフの説得に乗った。問題は逮捕作戦だった。マレンコフは軍の将軍らにこの任務を任せた。クレムリンの警護はベリヤが掌握していた。軍の将軍たちだけが武器を持ってクレムリン宮に入ることができた。
 
拡大政治局会議が開かれた。マレンコフが司会を務めた。フルシチョフが隣の席に座ったベリヤを反党分子に追い立てる演説を始めた。ベリヤがフルシチョフの腕を掴み、「ニキータ、何をするの?」と言った。フルシチョフは、「聞けば分かるさ」と振り切って演説を続けた。彼は、ベリヤがスパイである可能性があり、スターリンが死んでから色々と反党行為を犯したと告発した。フルシチョフは、「このような彼が共産主義者であるはずがない」と断定した。他の政治局員たちもベリヤを糾弾する発言をぶちまけた。
 
フルシチョフは、彼をすべての公職から解任し逮捕することを提案した。他の政治局員らも賛同した。マレンコフは机の上のボタンを押した。将軍たちが拳銃を持って会議場に入ってきた。マレンコフは、「首相の資格でベリヤを逮捕するよう命令する」と言った。第2次大戦の英雄のジューコフ元帥が拳銃を向けて「手を上げろ!」と大声で叫んだ。
ベリヤがそばに置いたカバンに手を伸べるのをフルシチョフが止めた。後ほどカバンを開けて見たら銃は無かった。
 
ベリヤが逮捕されたのはスターリンが死んでから
3ヶ月後だった。ベリヤとその部下らは裁判で死刑を宣告されて処刑された。ベリヤ除去工作を主導したフルシチョフはまもなく第一書記および首相になり、19562月の第20次全党大会でスターリンを格下げする演説をして共産主義世界を揺るがし世界史の流れを変えた。
 
毛沢東の死後、文化革命を主導した4人組(*右写真は法廷の4人組)は一ヶ月内に除去された。スターリン死後3ヶ月以内にベリヤは除去された。金正日の死後、金正恩は何ヶ月(あるいは何年)を持ちこたえるだろうか?
問題は、北韓の鄧小平やフルシチョフがあるのかどうかだ。
 
www.chogabje.com 2010-10-20 16:25

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