金成昱
李明博大統領の「8.15光復節慶祝辞」を聞いた。率直に言って何の感動も受けられなかった。
自由民主主義と市場経済は言及されたものの、これを支える法治に対する言及はなかった。「公正な社会」という概念は虚しく感じられた。左派が無理押しと不法、偽りと扇動を日常行いながらよく言うのが韓国社会は不公正だという言葉だ。
社会は公正でなければならない。だが、正義と平等がないと言えば、それは法が立たず秩序が崩れたためだ。公正な社会のためには一番先に韓国社会に蔓延している「無理強い法」や不法、暴力、無秩序から正さねばならない。
演説(慶祝辞)の中で公正な社会のために言及された事項は、数十年間繰り返してきた「規制改革」の他に、「私教育費の節減を含む教育改革、貧困の相続を断ち切るための学資金、庶民のわが家所有を助けるくつろぎの住宅、小商工人のための微笑金融と日差しローン、各階層に合わせた働き口の創出、大企業と中小企業の共存政策」などだった。
私のような庶民を助けるというから健気なことだ。ところが、一様にすでにもっている国富を分け与えるという人気性ポピュリズムの性格が濃厚だ。国富そのものを育てて金持ちはもっと金持ちに、貧しい人も金持ちになれるようにする、先進国建設へのビジョンは見えない。
国の財産はお金の生る木でない。大盤振舞いや分け与えをやると底を突く。左派政権10年間の天文学的な国の借金はそのように作られた。国の借金が増えれば結局税金が上がる。絶対貧困・絶対疎外階層でもない、家を持たず余裕のない国民をざっぱにまとめて助けるとは...頭が痛くなってきた。結局、韓国は南米が歩んだ道へ進むのか?
もっと残念だったのは「統一税」への言及だった。李大統領が触れた通り「統一は必ずくる」。だが、演説文にはなぜ「統一税」を納めるまでにして統一せねばならないのか、どんな統一をするのかということには言及がなかった。
短い演説文だからHow(如何にして)はなくても、Why(なぜ)とWhat(何を)は言わねばならない。だが、目標として提示された「平和統一」が、「平和的自由統一」なのか、「平和的赤化統一」も構わないということなのか出ていない。恐らく、北韓を刺激するのを憂慮して「平和的自由統一」を平和統一と表現したようだ。だが、平和的自由統一の名分が北韓同胞の解放と救援、北韓再建と北韓特需を通じての先進国建設にあるということを国民に知らせねばならなかった。統一は、だから夢と希望であるという、勇気と力を与えるべきだった。
大義名分を省略した「統一税」導入発言は、国民に「統一は税金負担ばかり増える悪いこと」という認識を植える。李大統領は「統一は必ずくる」と言ったが、聞いた人々はかえって統一への漠然とした恐怖と恐れだけを膨らましただろう。「統一税」の概念がどうせ北韓政権の崩壊を前提とした平和的な自由統一であるだけに、北韓の人権と統一後のビジョンをもう少し堂々と話してもよかったのではないか?
李大統領がこういう全てのことを予想して演説文を作れないかも知れない。だが、もっと大きな問題は、大統領より理念と価値に鈍感な演説文作成者たちと青瓦台の参謀たちだ。