趙甲済
深層取材:イランと北韓の核取引(月刊朝鮮2006年11月号)
(つづき)
武器輸出大国、北韓
1987年7月から北韓製スカッドミサイルがイランに届き始めた。北韓はスカッドミサイルを生産するや北韓軍に配置する前にイランへ輸出した。7ヶ月間で約100基の北韓製スカッドがイランに引渡された。このスカッドは全部イラクの都市に向かって発射された。
イラクとの戦争が終わった後、イランは北韓からスカッドBだけでなく、射程距離500kmの改良型スカッドCも輸入し始めた。北韓から設計図や技術指導を受けてイランは自ら生産し始めた。イランは北韓が開発した射程距離1000kmのノドンミサイルを輸入した後工場を作ったという。
東西冷戦の時、内戦や局地的紛争状態が続いた、アフリカ、中東、中南米、東南アジア国々において、北韓は米・ソに続く第3の武器販売国家だった。北韓はこれらの地域に武器を売り将校たちを送って現地の軍隊を訓練させ、該当地域の軍事要員などを北韓に招いて訓練させた。
1990年まで北韓は62ヶ国に対する軍事訓練を実施した。アフリカ25ヶ国、中南米19ヶ国、アジア9ヶ国、東南アジア7ヶ国、ヨーロッパ2ヶ国だった。延5000人の外国軍事要員が北韓で訓練を受けた。約7000人の北韓軍事顧問団が47ヶ国に派遣されて訓練をさせた。
1980年代、アフリカのジンバブエの場合、北韓は対テロ部隊である第5旅団を訓練させ武装させた。北韓は約1800万ドル分の装備をこの国に売った。
1970年代にブラジル、ボリビア、チリ、グアテマラ、メキシコ、ペルー、ベネズエラ、ニカラグア、アルゼンチンの叛軍に北韓は軍事援助と武器の販売を熱心にやった。これらの国々に派遣された北韓軍人が実際戦闘に参加したという報道があったが確認がされていない。
監視網を潜ることに大家
「1973年の第4次中東戦争の時、北韓軍操縦士たちがエジプトの戦闘機を操縦した」という噂があった。1977年のリビア-エジプト戦闘の時は、北韓軍人らがリビア軍のタンクを操縦したという。米情報当局によれば、1979年に北韓は100人余りの軍人をリビアへ派遣してソ連製戦闘機の操縦士を訓練させ、実戦勤務をしたという。
米軍備統制局は、「北韓は1978~1987年間、中東、アフリカ、中南米の30ヶ国に約39億ドル分の武器を売った」と推定した。スカッド、タンク、高速艇、対電車ミサイル、装甲車、自走砲、長距離野砲などだった。39億ドルの約71%の28億ドルはイランに売ったものだった。
高位脱北者のK氏は、「実際の輸出額はこれより遥かにに多い約50億ドルに達する」という。問題は、このお金が国家経営に使われず金正日の秘密資金口座に流れたことだ。1982年の北韓の武器輸出額は全体輸出額の約38%だった。この時期、北韓は中国とソ連から約28億ドルの武器を輸入した。金額面で北韓は純武器輸出国だったわけだ。
1990年に入り世界的に紛争地域が減り共産圏が崩壊して北韓の武器輸出が低調になったが、2001年の場合、約6億ドル分を輸出した。今も北韓は紛争地域への武器輸出を続けている。数十年間蓄積されたこの方面の経験で、北韓は米国の監視網を潜る方法を知っている。北韓の武器工場と科学者は世界の秘密武器取引業者らと深い紐帯を保っている。米国が恐れるのがこういうネットワークが北韓の核技術や核物質、甚だしくは核爆弾まで取引の対象とする可能性がある点だ。
イランと北韓は、非正規戦とテロ部門の大家だ。両国は世界のテロや犯罪団体に対するノウハウと情報が一つのネットワークに構成されたインフラを持っている。イランと北韓が核武器を開発し核物質を獲得することになれば、こういうテロのネットワークと接続して核テロを誘発するようになる可能性があるということだ。しかも、両国が核技術の交流においても血盟の精神を発揮すれば、世界が震えるようになる。韓国は対イラン政策を見直さねばならない。
北韓軍将校たち、毒ガスにたくさん死んだ
脱北者のK氏は、イランへ派遣された北韓軍人は全員が将校だったと証言した。初期は各級軍官(将校)学校の教官たちが差出されてイランへ送られた。後には平壌防御司令部から選ばれてきた将校たちが多く、東海岸の海軍第2戦隊所属将校たちがきたという。空軍は参戦しなかった。北韓とイランは、高速艇に放射砲を載せてイラク軍を攻撃した。K氏の証言中で興味深いのは北韓軍将校がイラク軍の毒ガスでたくさん死んだという主張だ。
今裁判を受けているフセインがイラク北部のクルド族を相手に毒ガスを使用した事実は良く知られている。フセインのイラク軍隊がイランとの戦争中イラン軍にも毒ガス作戦を行ったという事実は看過することが多い。 イラン-イラク戦争当時、米国とヨーロッパ、中東産油国らがイラクを支援したためイランに有利な記事は大きく報道されなかった点もある。アメリカの言論が集中的に問題を提起しない国際事件は覆われてしまう傾向がある。
1984年、イランは約50万人の革命守備隊と義勇軍を動員してイラクの第2都市バスラに接近した。イラン軍は重火器が不足したため人海戦術を使った。ある東欧圏の記者はイランが数千人の少年を20人単位で繋げって戦線に投入するのを見たという。攻撃用ヘリコプターやタンクで重武装したイラク軍隊がイランの攻撃を阻止した後、初めてイランは正規軍を投入した。
この時、数で劣勢だったイラク軍は毒ガスを使い始めた。毒ガス弾をタンク、ヘリコプター、戦闘機などで主にイラン軍の集結地と砲兵基地を攻撃した。第一次世界大戦以後初めてのことだった。イラク軍は後には毒ガス戦術を攻撃戦術の必須の部分として使用した。
1986年当時、国連事務総長のザビエル・ペレズ・クエルラ氏は、イラクが毒ガスを使ったことを認めた。国連は4名の化学戦専門家をイランに送って現場調査をした。国連の報告書は、「イラクが神経系統を麻痺させるガスを使った」と指摘した。ヨーロッパの病院らに移送されたイラン人患者らを通じても確認されたということだ。1986年、ジュネーブで開かれた軍縮会議に参加した英国代表は、「イラクの毒ガス使用で約1万人の死傷者が発生した」と話した。
イラクが、クルド族を相手に毒ガスを使ったのは1988年の3月だ。つまり、国連が「イラクの毒ガス使用は1925年のジュネーブ合意を違反したもの」と指摘した後も、フセインは反人類的大量殺傷武器を使ったという話だ。フセインは金正日のように彼自身が大量殺傷武器だったわけだ。
イラン-イラク戦に参戦した脱北者のK氏は、「イラン軍を指揮した北韓軍将校たちはイラン軍の戦闘能力を非常に低く評価した」と言った。北韓軍の実力なら1個師団で片づける作戦を、1個軍団でも慌てふためいたということだ。このような水準の軍隊だったから単純で値段の安い北韓製武器が適合した。北韓軍はモスクワ-アゼルバイジャン-イランを繋ぐ鉄道で投入されたという。北韓軍将校たちは革命守備隊の兵営に留まったため、一般のイラン人たちには露出されなかったが、イラン駐在北韓大使館に行けば将校たちに会えた。
「核実験資料と核爆弾の設計図を売るはず」
K氏は、北韓が核実験をしたから、核爆弾の設計図と実験資料は必ずイランへ売れるようになるはずだと断言した。
「共に血を流して戦ったという血盟関係によって、イランと北韓の関係は北韓-パキスタン関係以上に発展しました。イランが北韓のミサイル開発に資金を提供し、生産された製品は彼らが買っていきます。北韓はイランの油を安値に供給されます。こういう戦略的相互依存性に基づいている両国が、核武器を開発して孤立するやもっと親密になりました。互いに隠すことのない関係とも言えるでしょうか。イランと北韓の協力は、互いが生存の問題です。」
K氏は、対北金融制裁や国連の経済制裁が北韓体制に打撃を与えるのは事実だが、これを過大評価しては誤るという見解だった。彼は、「北韓体制は元々こういう悪条件下で耐えてきたし、生存の方法を知っている」と言った。文書を以て対北制裁を決議するのと、それが守られるのは別個ということだ。
ただ、対北金融制裁は、金正日政権の支配層の間に不信と不安を育んでいるため、彼には1990年代の大饑饉事態よりむしろもっと深刻な問題になったという。ミサイル発射実験や核実験は、揺らいでいる支配層に対して彼(金正日)の権威を立てるための目的を主にしている。
K氏は、「そういう示威が一般住民には効くだろうが、支配層の人々には逆効果を招くだろう」と言った。北韓の党と軍の幹部らは外部事情に対してよく知っているので、金正日のショーに騙されないという。核武器を抱いたまま死ぬしかないジレンマに陥った金正日が、イランを非常口として脱出を試みたら、地球の災殃になる。
*写真(上から):北韓のスカッドミサイル、第4次中東戦争(ゴラン高原のイスラエル軍)、サダム・フセイン前イラク大統領、2010年4月中国を訪問した金正日。