深層取材、「核の双子」イランと北韓の密着の秘密‐(下)

イラン-イラク戦に北韓軍将校が数千人参戦した。戦死者も数百人。イランと北韓は血盟関係。 「北韓は核実験資料と核爆弾の設計図をイランに売る」-脱北科学者。
日付: 2010年08月08日 20時47分

趙甲済
深層取材:イランと北韓の核取引(月刊朝鮮2006年11月号)
(つづき) 
 
武器輸出大国、北韓
1987
年7月から北韓製スカッドミサイルがイランに届き始めた。北韓はスカッドミサイルを生産するや北韓軍に配置する前にイランへ輸出した。7ヶ月間で約100基の北韓製スカッドがイランに引渡された。このスカッドは全部イラクの都市に向かって射された。
 
イラクとの戦争が終わった後、イランは北韓からスカッドBだけでなく、射程距離500kmの改良型スカッドCも輸入し始めた。北韓から設計図や技術指導を受けてイランは自ら生産し始めた。イランは北韓が開した射程距離1000kmのノドンミサイルを輸入した後工場を作ったという。
 
東西冷戦の時、内戦や局地的紛争状態がいた、アフリカ、中東、中南米、東南アジア国々において、北韓は米・ソにく第3の武器販売国家だった。北韓はこれらの地域に武器を売り将校たちを送って現地の軍隊を訓練させ、該当地域の軍事要員などを北韓に招いて訓練させた。
 
1990年まで北韓は62ヶする軍事訓練を施した。アフリカ25ヶ、中南米19ヶ、アジア9ヶ、東南アジア7ヶ、ヨロッパ2ヶだった。延5000人の外軍事要員が北韓で訓練を受けた。約7000人の北韓軍事顧問が47ヶに派遣されて訓練をさせた。
 
1980年代、アフリカのジンバブエの場合、北韓テロ部隊である第5旅を訓練させ武装させた。北韓は約1800万ドル分の装備をこのった。
1970年代にブラジル、ボリビア、チリ、グアテマラ、メキシコ、ペルー、ベネズエラ、ニカラグア、アルゼンチンの叛軍に北韓は軍事援助と武器の販を熱心にやった。これらの国々に派遣された北韓軍人が戦闘加したという報道があったが確認がされていない。
 
監視網を潜ることに大家
「1973年の第4次中東
戦争の時、北韓軍士たちがエジプトの戦闘機を操縦した」という噂があった。1977年のリビア-エジプト戦闘の時は、北韓軍人らがリビア軍のタンクを操縦したという。米情報局によれば、1979年に北韓は100人余りの軍人をリビアへ派遣してソ連製戦闘機の操士を訓練させ、実戦勤務をしたという。
 
米軍備統制局は、「北韓は1978~1987年間、中東、アフリカ、中南米の30ヶに約39億ドル分の武器をった」と推定した。スカッド、タンク、高速艇、電車ミサイル、装甲車、自走砲、長距離野砲などだった。39億ドルの約71%の28億ドルはイランにったものだった。
 
高位北者のK氏は、「際の輸出額はこれより遥かにに多い約50億ドルに達する」という。問題は、このお金が経営に使われず金正日の秘密資金口座に流れたことだ。1982年の北韓の武器輸出額は全体輸出額の約38%だった。この時期、北韓は中とソ連から約28億ドルの武器を輸入した。金額面で北韓は純武器輸出だったわけだ。
 
1990年に入り世界的に紛地域が減り共産が崩壊して北韓の武器輸出が低調になったが、2001年の場合、約6億ドル分を輸出した。今も北韓は紛地域への武器輸出を続けている。十年間蓄積されたこの方面の経験で、北韓は米の監視網を潜る方法を知っている。北韓の武器工場と科者は世界の秘密武器取引業者らと深い紐帯を保っている。米が恐れるのがこういうネットワクが北韓の核技術や核物質、甚だしくは核爆まで取引の象とする可能性がある点だ。
 
イランと北韓は、非正規とテロ部門の大家だ。両国は世界のテロや犯罪体にするノウハウと情報が一つのネットワクに構成されたインフラを持っている。イランと北韓が核武器を開し核物質を獲得することになれば、こういうテロのネットワクと接続して核テロを誘するようになる可能性があるということだ。しかも、両国が核技術の交流においても血盟の精神を揮すれば、世界が震えるようになる。対イラン政策を見直さねばならない。
 
北韓軍校たち、毒ガスにたくさん死んだ
脱北者のK氏は、イランへ派遣された北韓軍人は全員が校だったと証言した。初期は各級軍官()校の官たちが差出されてイランへ送られた。後には平防御司令部から選ばれてきた校たちが多く、東海岸の海軍第2隊所属将校たちがきたという。空軍は参戦しなかった。北韓とイランは、高速艇に放射砲を載せてイラク軍を攻した。K氏の証言中で興味深いのは北韓軍校がイラク軍の毒ガスでたくさん死んだという主張だ。
 
今裁判を受けているフセインがイラク北部のクルド族を相手に毒ガスを使用した事
は良く知られている。フセインのイラク軍隊がイランとの戦争中イラン軍にも毒ガス作を行ったという事は看過することが多い。
イラン-イラク戦争当時、米とヨロッパ、中東産油らがイラクを支援したためイランに有利な記事は大きく報道されなかった点もある。アメリカの言論が集中的に問題を提起しない際事件は覆われてしまう傾向がある。
 
1984年、イランは約50万人の革命守備隊と義勇軍を動員してイラクの第2都市バスラに接近した。イラン軍は重火器が不足したため人海術を使った。ある東欧圏の記者はイランが千人の少年を20位で繋げって線に投入するのを見たという。攻用ヘリコプターやタンクで重武装したイラク軍隊がイランの攻を阻止した後、初めてイランは正規軍を投入した。
 
この時、で劣勢だったイラク軍は毒ガスを使い始めた。毒ガスをタンク、ヘリコプター、戦闘機などで主にイラン軍の集結地と砲兵基地を攻した。第一次世界大以後初めてのことだった。イラク軍は後には毒ガス術を攻撃戦術の必須の部分として使用した。
 
1986時、連事務長のザビエル・ペレズ・クエルラ氏は、イラクが毒ガスを使ったことを認めた。連は4名の化学戦専門家をイランに送って現場調査をした。連の報告書は、「イラクが神系統を麻痺させるガスを使った」と指摘した。ロッパの病院らに移送されたイラン人患者らを通じても確認されたということだ。1986年、ジュネブで開かれた軍縮議に加した英代表は、「イラクの毒ガス使用で約1万人の死傷者が生した」と話した。
 
イラクが、クルド族を相手に毒ガスを使ったのは1988年の3月だ。つまり、連が「イラクの毒ガス使用は1925年のジュネブ合意を違反したもの」と指摘した後も、フセインは反人類的大量殺傷武器を使ったという話だ。フセインは金正日のように彼自身が大量殺傷武器だったわけだ。
 
イラン-イラク戦に参戦した脱北者のK氏は、「イラン軍を指揮した北韓軍校たちはイラン軍の戦闘能力を非常に低く評した」と言った。北韓軍の力なら1個師で片づける作を、1個軍でも慌てふためいたということだ。このような水準の軍隊だったから純で値段の安い北韓製武器が適合した。北韓軍はモスクワ-アゼルバイジャン-イランを繋ぐ道で投入されたという。北韓軍校たちは革命守備隊の兵営に留まったため、一般のイラン人たちには露出されなかったが、イラン駐在北韓大使館に行けば校たちに会えた
 
「核実験資料と核爆弾の設計るはず」
K氏は、北韓が核実験をしたから、核爆弾の設計実験資料は必ずイランへれるようになるはずだと言した。
「共に血を流してったという血盟係によって、イランと北韓の係は北韓-パキスタン係以上に展しました。イランが北韓のミサイル開に資金を提供し、生産された製品は彼らが買っていきます。北韓はイランの油を安値に供給されます。こういう略的相互依存性に基づいている両国が、核武器を開して孤立するやもっと親密になりました。互いにすことのない係とも言えるでしょうか。イランと北韓の協力は、互いが生存の問題です。」
 
K氏は、北金融制裁や連の経済制裁が北韓体制に打えるのは事だが、これを過大評しては誤るという見解だった。彼は、「北韓体制は元々こういう悪条件下で耐えてきたし、生存の方法を知っている」と言った。文書を以て北制裁を決議するのと、それが守られるのは別個ということだ。
 
ただ、
北金融制裁は、金正日政の支配層の間に不信と不安を育んでいるため、彼には1990年代の大饑饉事態よりむしろもっと深刻な問題になったという。ミサイル実験や実験は、揺らいでいる支配層にして彼(金正日)の威を立てるための目的を主にしている。
 
K氏は、「そういう示威が一般住民には効くだろうが、支配層の人には逆果を招くだろう」と言った。北韓の党と軍の幹部らは外部事情にしてよく知っているので、金正日のショに騙されないという。核武器を抱いたまま死ぬしかないジレンマにった金正日が、イランを非常口として出を試みたら、地球の災殃になる。
 

*写真(上から):北韓のスカッドミサイル、第4次中東戦争(ゴラン高原のイスラエル軍)、サダム・フセイン前イラク大統領、2010年4月中国を訪問した金正日。


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