「清津についた瞬間に騙されたと思った」
東京都内の木造アパートの一室で、朴成浩さん(仮名、64歳)はタバコの煙を大きく吐き出した。関西地方で両親と兄の4人暮らしだった朴さんは、高校生のときに一家で北送船に乗った。
民団にも総連にも顔を出していなかった父親を総連幹部らが訪ねてきた。「今よりいい暮らしができるから」と、生活が苦しかった一家の長を説得。母は反対したが、子どもたちのためにやむなく船に乗った。
「朝鮮戦争で技術者と労働力、資本が不足していた北朝鮮は、在日に目をつけた。特に生活が苦しい家庭を対象に、甘い言葉で北行きを働きかけて労働力を確保しようとした」と朴さんは言う。
清津についた一家は、中朝国境地帯にある炭鉱の町に送られた。韓国出身の両親は、韓国に近い南に住みたがったが、聞き入れられることはなかった。ただ、これが不幸中の幸いとなり、朴さんは脱北に成功した。
平壌や元山に住めるのはある程度の資産を持って渡った人だけ。「出身成分」の下から2つ目の「動揺階層」に属する帰国者は、最下層の「敵対階層」らとともに、地方の鉱山で一生を終えるのが常だった。
高校卒業後、大学進学の希望は叶うわけもなく、朴さんは鉱山で働きはじめた。給料も配給も平均以上。それでも常に「日本に帰りたい」と思っていた。
その願いを語り合える友人はいなかった。北朝鮮安全部(当時保衛部はなく、安全部保衛課だった)が帰国者の一部をスパイにしていたからだ。うかつに不満を口にすれば、どこに連行されていくか分からない。連行される人を何人も見た。
朴さん自身が、安全部の誘いを受けたことさえあった。そのときは「やります」としか答えられなかったが、密告したことはなかったという。
慣れない北朝鮮での生活で、最も頼りになる元在日の帰国者たちは、必ずしも一番信頼できる人々ではなかった。もっとも、家族でさえ信頼できないという家庭も多かったが。
朴さんは20代半ばで結婚した。妻は、最上階層の労働党幹部の娘だった。職場で知り合い、人目を忍んで交際を続けるうちに子どもができた。周囲は大反対だったが、堕胎はそれ以上に許されぬ行為だった。
家庭を持った朴さんの生活は、さほど苦しくなかったという。80年代までの北朝鮮経済は今ほど悪くなく、国境の川を渡るのも容易だった。日本に住む親族からの仕送りもあった。
ところが80年代後半、中国の改革開放で西洋文明や資本主義の影響が入ってくることを恐れた北朝鮮政権が、中朝国境の監視を厳しくしはじめる。送金を受け取りに中国との往来を続けた朴さんは、壮絶な神経戦を経験することになる。
川を渡るときは、国境警備隊員に金を渡して通してもらうのだが、渡河の時間を決めるのに暗号を用いた。決められた時刻に川岸に立ち、ライターに火をつけて連絡を取る。ライターの着火回数で互いに都合のつく日時を伝え合うのだ。
雨が降れば懐中電灯で“交信"を行った。警備隊員は軍人だ。いつ緊急の招集がかかるか分からないため、連絡を取り合う時間にも予備の時間帯を設けた。
協力者が捕まり、連絡方法を暴露してしまうこともある。ライターの着火間隔が微妙に違うと、石を投げて確認する。いつもの協力者ならば無言だが、別人が成りすましていると「誰だ!」と声が返ってくる。突然発砲されることもあった。溺死体も見た。
脱北は簡単だった。保衛部員に10万円、国境警備隊の中隊長に5万円渡し、中国の日本公館に連れて行ってもらった。
日本に戻った朴さんは、日本で生活保護を受けて暮らしている。平穏すぎる日々に戸惑うことがあったが、徐々に日本での生活に慣れはじめている。インタビュー中に少し間をおいた朴さんは、こう漏らした。
「生活は苦しくないけど寂しい」
朴さんの家族は現在、朴さん本人を除いて全員北朝鮮にいる。家族が監禁されたという情報も届いている。
朴さんは北朝鮮を「朝鮮民主主義人民共和国ではなく朝鮮王国だ」と批判する。王国の崩壊を待つ朴さんに残された時間は少ない。