在日朝鮮人の北送事業(59年12月開始)から半世紀。北送された元在日も脱北する時代になった。彼らは日本に170人、韓国にも50人以上いる。大部分は北朝鮮で生まれた北送2世か3世で、北送船に乗った人は珍しい。北送船に乗り32年ぶりに脱北し、韓国に定着した朴明運さん(仮名、47)の生の声を聞いた。
08年に脱北してソウルに定着した朴さんは在日朝鮮人3世だった。中学生だった76年、関西地方の総連幹部だった祖父母について万景峰号に乗った。金日成が韓国のセマウル運動をモデルとして、技術代表団を募集した頃だった。同乗者の相当数が道路設備技術者とその家族らだった。
「祖父の信念は固かった。これ以上日本で迫害を受けずに、余生は豊かな祖国で過ごそうと。その言葉を信じていました。当時は、北朝鮮行きに強く反対した父を全く理解できませんでした」
朴さんは新潟で船に乗り込むときの情景を鮮明に覚えている。保護者である父の承諾を得ていなかった朴さんに日本の警官は「あなたは本人の意志によって北朝鮮に行くのですか」と聞いた。「もちろんです」と答えた。そして人生は全く変わった。
76年は総連系幹部の母国訪問団事業が盛んな時期だった。参加した総連系の人物も多く、韓国の実情は知られていたはずだ。またごく一部であったが、脱北した元在日朝鮮人もいた。統一日報も、彼らの肉声と手記を連載していた。朴さんは本当に「北朝鮮が地上の楽園」と信じて北送船に乗ったのだろうか。
「祖父は三十数年間、一生懸命に総連の仕事をした人でした。四六時中北朝鮮に行きたがっていました。実情を知っていたら孫の私まで連れて行かなかったでしょう」
祖父は帰国後1年で死んだ。死の間際まで孫を連れてきたことを後悔していた。ほどなくして祖母も死んだ。朴さんは一時、「コッチェビ」(浮浪児)になった。
北送者の中には発狂する人が少なくなく、最初の政治犯収容所が燿徳に作られたのも、北送者を入れるためだったといわれる。燿徳収容所には北送者専用の監房まで用意されているほどだ。
「20代初めに北へ渡った女性が輪姦され、49号室(精神病院)に引きずられて行きました。私とほぼ同じ時期に北送船に乗ったある男性は、『思想不純者』として収容所に連行されました。朝鮮学校で教員をし、平壌で医学博士までなったエリートでした」
北送された在日は9万3000人。北朝鮮で生まれた子孫を入れれば約25万人になると推定される。彼らは開城等南北対峙地域を除く全域に住んでいる。北送者同士の隠語もある。
北朝鮮現地の住民は「ゲンチャン」、あるいは「アパッチ」などと呼ぶ。金正日は言葉の代わりに親指と人差し指でサインを作る。
自らの呼称もある。60年代に帰国した1世は「古だぬき」、それ以降に北送船に乗ったのは「最近帰り」と呼ばれる。
日本の親族の助けで大学を出て教員になり、後に国家科学院傘下の研究所に勤めた朴さんは「北朝鮮はお金さえあれば何でもできる所」と話す。
脱北も同じだ。07年に日本に定着した元北送者が家族を救おうと1000万円を投じて保衛部の幹部を買収、船で西海沖を南下して脱北させた。
07年に一度脱北に失敗し、収容所に収監された朴さんも、日本の親戚の経済的援助を受けて脱北に成功した。
「北朝鮮で北送者は、お金になると思われています。朝中国境地帯の収容所では、所長が私を担当したのです。拷問を加え、『日本の親戚に金を送ってくれと言え』と、中国製の不法携帯電話を渡すのです。拒否すると、その日から食事を与えられなくなりました」
朴さんは2カ月半ほど食事を与えられず、深刻な栄養失調にかかった。餓死直前だったという。収容所長が育てている犬のエサを盗んだこともある。
所長の上司に賄賂を渡し、朴さんは解放された。3カ月後、朴さんは日本の親戚からの送金を受けて、保衛部員からバスの運転手まで買収して中国に脱出。その後タイの北脱出者収容所を経て韓国に入国した。
幼い時日本で食べたファーストフードを韓国で口にしたときの喜びは今も忘れられないという。
(ソウル=李民晧)