評者:金両基
著者は戦前の朝鮮で小中学校を終え、特攻に出撃する僚友を見送ったその夏、数え年20歳で敗戦を迎え、日本が負けるときは死んでいるはずだと思いこんでいた。敗戦後、「時代によって変わる人間の尊卑に対するカンを鋭くさせられた」著者は1965年、記者として韓国に行く。
そのころ上質の韓国人に多く出会った著者は「あんないい人たちの国だから、ぜひ良くなってほしい」と願い、事故や混乱が起こると胃が痛くなった。本書はその彼の、ときとともに韓国から遠ざかりゆく心情が表題になっているのだが、日本の現況への批判も激しい。
日本は「豊かさに反比例して、内面はひどく貧寒なものになっている」のは「なんでも他者のせいにする習慣が蔓延した」ことだといい、他者頼みの形は韓国人にもあり、ともに自立性の欠如だと指弾する。そうした展開からわたしはアイロニカルな愚痴の徒然草のように感じた。苦い薬のように知に響くかと思えば愚にも響く。激しい言葉で北朝鮮や韓国を指弾する心情の深奥に共生への願望が潜んでいるようにも読める。
従軍慰安婦問題が出てからの韓国の歴史認識論議に、著者は「まともに対する気持ちを失った。慰安婦を国家権力が強制的に動員したというウソにしがみついて、元慰安婦の老婆まで動員した浅ましいやり方につきあう必要はないと思ったからである。歴史を安易に利用しようとする饒舌家には、低頭する気になれない」という激語には、事実を立証する裏付けが必要であろう。
韓国の反日運動や謝罪要求は「日本側に負い目の意識があるという条件に乗っかった便法に過ぎない」そうした「運動に、生産性は乏しい」と指弾する。自分は「中韓や日本のいわゆる良心派から<侵略の歴史を反省しない図々しい奴>だと罵られるかも知れない」と続くが、そうした摩擦を乗り越える手立てが示されていないのはなぜか。
アメリカナイズされた日本人の日常生活に「日本の影がどんどん薄くなって行くような気分」になったり、「大東亜戦争は米国の物量に負けただけではなかったのか、という敗北感に捉えられ」て行く。日本がアジアの一員である以上「もう少し現実をとくと見る努力をしたいものだ。そしてやたらに犠牲者を創らないため、アジアの現実に即した政治理論を創らなければなるまい」と結んでいる。そこに東アジアの共生への著者の想いが滲んでいるが、本書全体の通奏低音がみえてこない。
晩聲社刊/定価1500円(税別)
(キム・ヤンギ 比較文化学者)