そのとき七里ヶ浜で見た夕焼け空が、その数カ月後に直江津の海で目にした光の帯とともに、いまでも変に祥一の印象に残っている。
あれは、新宿のレストランで、東京ではじめて洋子に逢ってからニカ月ほどすぎたある日曜日だった。
なぜか、祥一は、その日が十二月十一日だったことまでも憶(おぼ)えている。十二月なのに、かなり暖かい、よく晴れた日だった。風もなかった。
その日、彼は、洋子と新宿で「おとうと」という日本映画を観る約束になっていた。暖かかったので、コートも着ずに下宿を出た。
待ち合せたのは、例のレストランだった。十一時にそこで待ち合わせた。昼食には早い時間だが、彼にとってはそこでの食事が朝食だった。自分の部屋で朝食をきちんと食べる習慣の洋子は、コーヒーを飲み、サンドイッチを少し食べただけだった。祥一はカレーライスを食べた。
窓際で食事しているうちに、あまりに天気がよいので、暗い映画館に入るのがもったいない気がしてきた。どこかに散歩に行きたい気持が湧いた。
「ねえ、今日は天気がいいし、映画を観るより、どこかに散歩に行かないか」
カレーライスを食べ終り、コーヒー茶碗を手にしながら、彼は提案した。
「散歩って、どこへ?」
「鎌倉はどうだろう」
|
|
大学に入ってまもない五月に、彼は散歩がてら鎌倉に行ったことがあった。新緑がまばゆい季節だった。北鎌倉で電車を降り、円覚寺をはじめ、建長寺、明月院など、いくつかの寺をめぐって鎌倉に出、さらに七里ヶ浜から江の島まで歩き、そこから江の電で藤沢に出て、東海道線で帰った。そのときも天気がよかった。七里ヶ浜の浜辺に坐り、いつまでも海を眺めたものだった。
「鎌倉って、遠いの?」
あちこち出張旅行しているのに、洋子は鎌倉を知らなかった。東海道線にはしょっちゅう乗るが、横須賀線には乗ったことがないという。
「横須賀線で行くと、大船のつぎが北鎌倉、そのつぎが鎌倉だ。東京駅から一時間たらずだ。北鎌倉から鎌倉まで散歩してみないか。お寺をいくつか回りながら」
「お寺がたくさんあるところだとはきいていたけれど」
「小浜(おばま)と、ちょっと感じが似ている町だよ」
敦賀から、五十キロばかり西に行ったところの小浜の町にも、山間(やまあい)のあちこちに古寺があるのである。
「行ってみようかしら」と洋子はいった。「知らない町を歩いてみるのも面白いわ」
こうして、その日、二人は映画を観るのをやめて、鎌倉に行った。東京駅に出て、横須賀線に乗り、北鎌倉駅で降りると、まず円覚寺を見物した。「この門、小浜の明通(みょうつう)寺の山門に似ているだろう」
寺に少し入ったところで祥一はいった。
「ほんとに似ている。明通寺のより大きいけれど」
祥一は、小浜には何度か行ったが、庭園の美しい萬徳寺と並んで、郊外の小高い山の中腹にある明通寺に特に惹かれていた。仏像に対しては彼は感応が鈍いが、コケが生え、中央の辺が磨滅してへこんでいる急な石段を昇ったところにある山門、さらにその奥に建っている三重塔は、何度見ても飽きなかった。寺は無数の杉の巨木に包まれ、夏は蝉時雨(せみしぐれ)がかまびすしかった。
1984年9月15日4面