序曲(61) 金鶴泳

日付: 2010年02月25日 10時45分

 洋子はまた階下に降りて行った。こんどは、汗に濡れた顔を洗うためだった。
「タオルを貸してね」
 と、窓先のビニール紐に下げてあるタオルをとり、顔を拭いて、書棚の脇の柱に掛かっている小さな鏡に向かい、立ったまま化粧を整えばじめた。
「このあいだ、深沢さんが上京してきたわ」
 鏡に向かったまま洋子はいった。
「敦賀の、貿易会社に勤めている人と婚約したんですって」
 深沢正恵は、この春に短大を卒業し、敦賀に帰っていた。祥一は、気比神宮の前で会ったときの深沢正恵をちょっと思い出した。あれから二年になるが、それ以後いちども会っていない。
「あの人、一人娘でしょう。だから、婿養子として迎えることになったんですって」
 深沢正恵の家は、気比神宮の裏手で材木屋をしていた。
「ずいぶん早いんだね」
「同級生の中では、いちばん早いくらいかしら」
 自分と洋子だって、本当をいえば、もう婚約していい間柄なんだ、と祥一はふと思う。洋子もそう思っているかも知れない。そんな気がして、
「お腹(なか)が空(す)いたろう。どこかへ食事に行かないか」
 と彼は話題をそらした。
「お腹が空いた?」
「ちょっとね」
「じゃあおつき合いするわ。祥一さんがいつも行っている食堂も見てみたいわ」


 洋子はいった。しかし、彼は、洋子を河野屋に連れて行く気はなかった。河野屋は野暮ったい店で、そこを利用するのは、ほとんど独身の男ばかりだ。洋子のような女性には向かない。彼は、キッチンリバーに案内することを考えていた。
「狭いところだけど、肉の質のいい店なんだ」
 祥一はいつかの伊吹の口真似をした。すると、化粧を終えた洋子は、
「お肉が食べたいんだったら、わたしのところにいらっしゃいよ。いい肉が用意してあるの。ビールとウイスキーもあるわ。ここからだったら、保谷までそれほど遠くないでしょう?」
「吉祥寺からバスで三十分ぐらいかな」
 荻窪からもバスが出ているが、こちらは二、三時間に一本しか出ていない。
 祥一はまた隣家の煙突に目をやった。食事のあとのいつもの行為が頭に浮がんだ。
「行ってもいいのかい」
「何いっているのよ。三週間ぶりじゃないの」
「いや、四週間近くになるな」
「そんなになる?ひさしぶりね」
 洋子の部屋で食事するのがひさしぶりということなのか、自分に抱かれるのがひさしぶりということなのか-両方の意味を彼は感じた。
「じゃあ、ひさしぶりに君の料理をご馳走になろうか。充分な蛋白質、生野菜をたっぷりね」
 祥一は笑いに紛らせた。
「明日は日曜日よ。ゆっくりとお酒も飲めるわ。金沢の代理店の人に、ウイスキーをお土産にいただいたの」
 洋子の部屋で飲むときは、いつもビールだった。酒の飲めない洋子がウイスキーを土産に貰ったのは、彼のためにと思ったからであろう。
 彼は、ふたたび窓の外を見やった。隣家の風呂の煙突から、微かに煙が立ちのぼりはじめていた。

1984年9月14日4面


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