「夏のあいだはこれでもいいでしょうけど、秋頃になったら、絨毯(じゅうたん)を敷きなさいよ。冬は、このままだったら寒いわ」
拭き掃除を終り、立ち上がって額の汗を腕でぬぐいながら洋子はいった。
「うん、そうした方がいいだろうな」
洋子は汚れた雑巾をバケツに入れ、また階下の洗面所に降りて行った。
戻ってきた洋子に、
「おかげですっかりきれいになった」
と祥一が礼をいうと、洋子は彼の言葉に頓着せず、こんどはカーテンの開け閉めをはじめた。
「丈が短いわね。幅も足りないわ。それに、案の定、色も褪(あ)せている」
アパートの西はずれの部屋のせいで、三方が窓になっているが、北側のは壁の位置が高いために、窓は細長く、ガラスも曇りガラスになっているので、こちらの方は別にカーテンは必要ない。だが、南側と西側の窓は、壁の位置が低く、透きガラスになっているので、カーテンを引かないと外から丸見えである。
「カーテンを替えましょう」
と洋子は南側と西側のカーテンを見つめた。
「物差しを貸して」
祥一は、机の抽出しから物差しをとり出し、洋子に渡した。
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洋子は窓の横幅を測り、机の上のメモ用紙に鉛筆で寸法を記した。つぎに椅子を窓辺に引き寄せ、その上に立って、窓の丈の寸法も測った。
「こんど逢うまでに、新しいカーテンをあつらえておくわね。それまではこのカーテンで我慢して」
「そんなことまでして貰うのは悪いよ。せめて、生地ぐらいは自分で買う」
「生地といったって、たいした額じゃないじゃないの。水くさいことをいわないで」
洋子はたしなめるような笑いを浮かべた。
彼は口をつぐみ、視線を洋子から隣家の風呂の煙突に移した。まだ三時前だから、煙突から煙は出ていない。
「お食事は、相変わらず外食なの?」
「共同炊事場があるけれど、ほとんどの者が外食だね。ぼくも、外で食べている」
「近くに、食堂があるの?」
「駅まで出るさ。駅の近くの食堂で食べている」
「不便じゃない?」
「なに、散歩がてらに、ちょうどいいくらいだよ」
「できるだけ、いろいろな種類のものを食べるようにしてね」
洋子はいつかと同じことを口にした。
「充分な蛋白質と、生野菜をたっぷりだね」
祥一は先回りしていった。
「冗談でなく、そうしなくては駄目よ。祥一さんは少しお酒を飲みすぎているんだから」
洋子の表情は真顔だった。
しかし、河野屋で出される定食には、たっぷりした野菜など添えられていない。蛋白質だって、充分といえるほどのものではない。リバーで食事すれば別だろうが、毎日そこに通うほどの金の余裕もない。充分な蛋白質とか、たっぷりした野菜とかにさほど食欲をおぼえないうえに、高価な食事をするよりは、本の一冊でも買った方がいい、彼は内心そう思っている方だから、洋子の忠告はただきき流すだけだった。
「ここは、本当に静かねえ」
と洋子は椅子に腰を下ろした。
洋子の住んでいる保谷も静かな町だが、ただアパートのすぐ近くに線路が走っているのである。
1984年9月12日4面