それから洋子は、ベッドカバーをきちんと整えたあと、本棚をはじめ、あちこちにハタキをかけはじめた。
<そんなこと、しなくてもいいのに>
祥一は、心につぶやいた。しかし、祥一の部屋に来るたび、きれいに掃除をせずにいられないのが、洋子の性分だった。
「あら、鬼胡桃(おにぐるみ)」
机の上に置かれている三個の鬼胡桃を見て、洋子は頬笑んだ。
「相変わらず、鬼胡桃を握っている。握りながら机に向かっていると、気が紛れる。こすり合せているときの音がいいね」
と祥一は、洋子の掃除の邪魔にならないよう、ベッドの縁(ふち)に腰を移した。
「必要だったら、またあげるわよ。敦賀の実家の庭で、これはいっぱい採れるんだから」
「その必要はない。君から貰ったのがまだ充分残っているから」
洋子から贈られた二十個ばかりの鬼胡桃のうち、使っているのは、いまだに机の上の三個だけだった。手垢で多少黒ずんでいるものの、それなりに愛着も増していた。角(かど)も多少摩滅しで、握りやすくもなっていた。
|
|
洋子の動作はてきぱきしていた。部屋の至るところにハタキをかけたあと、祥一が掃き掃除を済ませておいた床を、もういちど箒(ほうき)で掃いた。ベッドの下にまで箒を入れて、埃を掻き出した。ベッドの下までは彼は掃いていなかった。いつも、目に見えるところしか掃いていない。
「これでも、お掃除をしたつもり?」
洋子は笑いながらまたいった。ベッドの下から、かなりの埃が出ていた。
「バケツと雑巾(ぞうきん)はどこにあるの?」
祥一は、本棚の陰から雑巾をとり出した。拭き掃除をほとんどしないから、雑巾は乾き切っている。
「バケツは、一階の共同洗面所にある」
洋子は階下に降りて行った。バケツに水を入れて運んできて、拭き掃除をはじめた。床、机、本棚、窓の敷居など、丹念に拭いた。
祥一は、為すこともなく、相変わらずベッドの縁に坐り、洋子の仕種(しぐさ)を見ていた。彼女が床を拭いているとき、肉づきの豊かな臀部がさらに丸く膨らんだ。
彼は、欲望をおぼえた。彼女は、額から汗を流しながら床を拭いている。そういう洋子を欲望の目で見ている自分を振り返り、やはり、自分にとって洋子は、欲望のはけ口の対象でしかないのだろうか、という思いがまたしても彼の胸をよぎる。
いや、それは違う、と彼は自分の中でいい返す。欲望の対象としてだけだったら、深沢正恵にわざわざ洋子の住所をききもしなかったろうし、洋子に手紙を書くこともしなかったろう。鬼胡桃だって、はじめから握りもしなかったろう。
むしろ、自分が感じているのは、依然として自分を見続けてくれている、洋子に対する感謝の気持だ。時折洋子にやましさに似た思いをおぼえるのは、洋子が自分を見続けてくれている割には、自分は洋子を見つめていない、相変わらず自分の中だけを見つめている、そこからくるところのものだ。
たしかに、洋子に逢うと、欲望をおぼえ、洋子の身体に身体を埋める。そのときに自分の味わっているのは、快楽であると同時に、一種の安堵(あんど)感というべきものだ。現に、いま、汗を流して丁寧に掃除をしている洋子を目の前にしながら、自分の感じているのは、欲望という以上に、安堵の感情ではないか。
1984年9月9日4面