序曲(56)金鶴泳

日付: 2010年02月05日 13時23分

「森本さんの本当の名字がわからなかったんです」
 洋子は言葉を続けた。
「安原さんからきいたんですけど、あちらの人が日本名を名乗る場合、本名を混ぜるのが多いそうですね。安原さんの場合も、安という字を混ぜているでしょう?金という名前が本名のときは、金田とか、金山とか、金城とかいう名前を使うでしょう。それからこんな話もききました。本当の名前は朴さんというんですけど、この字を分解して、木トにして、トの字を戸に替えて、木戸さんと名乗っているとか、申の字を三と川に分解して、三の字を美に替えて、美川と名乗っているとか……。でも、森本さんという名字からは、本当の名前が見当もつきませんでした」
 そんなことまで考えていたのか、と祥一は意外に思った。高校のとき、自分を見つめてくれていたばかりでなく、自分の韓国名についてまで、頭をめぐらせていたのか。人間としての自分と同時に、韓国人としての自分を見つめてくれていた洋子を彼は感じたものだった。
 バスの停留所には、ながい行列が並んでいた。バスの本数が少ないうえに、やはり土曜日の午後のせいであろう。二人は停留所で、二十分ほどもバスを待った。
「梅雨は明けたようだけど、蒸すわね」


 なかなか来ないバスを待ちながら、洋子は口にした。祥一のアパートは、バスを降りて五分ほどのところであった。
「この辺にも、結構畑があるのねえ」
 バスを降り、アパートの方に歩いていたとき、洋子はいつかの運送屋の男と同じことをいった。
「西荻窪って、もっと家の立ち並んでいる町かと思ったわ」
「なに、このあたりだけさ。駅から少し遠いからね」
 バスの停留所から、下宿への道の左側が操業をやめている時計工場で、右側は陸稲畑になっていた。時計工場の樹木から、蝉(せみ)の声がきこえている。
 アパートの部屋に着くと、中庭の樹木からも蝉の声がきこえた。
「まあ、涼しそうなお部屋ねえ」
 部屋に入ると、洋子はあたりを見回した。
「風通しはいい。夏は涼しいけど、冬は寒そうだな」
「でも、いいお部屋じゃない?木立ちがすぐ前にあって」
 と洋子は窓辺に立って中庭を眺めた。
 祥一は、中庭を見下ろしている洋子の腰の辺を見ていた。三週間ぶりだな、と彼は思った。いや、四週間近くになる。
 洋子に近づいて行き、後ろから洋子を抱きすくめた。抱きすくめるだけのつもりだったが、洋子はカン違いしたのか、
「だめよ。お部屋を見にきただけ」と彼を制した。「それに、お隣りに岡田さんがいるじゃないの」
 アパートに来る途中、彼は、岡田と伊吹のことを話した。アパートの住人に岡田と伊吹という同じ大学の学生がいること、二人とも祥一と同じく留年中で、伊吹が一風変わった学生であること、岡田も別の意味で変わっていて、引越してきた晩にラブレターを読まされて面喰らったこと、などを語った。
 岡田は在室のようだった。何かを動かしているらしい物音が、ときどききこえた。碁会所に行くのは、今日は中止にしているらしい。彼は、洋子から離れた。

1984年9月6日4面


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