朴在圭慶南大総長の北朝鮮研究は、いわゆる「赤色不穏文書」を収集することから始まった。日本に行けば北朝鮮と朝鮮総連の冊子を集め、香港に立ち寄れば共産党発行の情報誌を捜し求めた。
「金浦空港から入国するたびに騒ぎになりました。かばんを開けられ、税関職員が集まってきたこともあります」
入国の際の騒動は、研究を始めて20年以上変わることなく続いた。
東西冷戦真っただ中の86年、朴は中国訪問の機会を得た。鄧小平の側近の助けを借りて行った10日間の中国踏査は、朴にとって新鮮な衝撃だった。
眼前に広がる中国東北部の風景は、韓国の70年代初めとそっくりだった。「百聞は一見にしかず」と、朴は帰国後すぐに韓中学生交流の必要性を教育部に訴えた。
教育部は「時期尚早」と返答したが、朴は再び提案をした。
「韓国では学生の理念偏向デモが深刻です。彼らに共産主義社会の経済水準と意識の実態を直接見せてはどうでしょう。これ以上の比較学習はないと思います」
何とか許可を引き出した朴は、30人規模の「大学生中国研修団」を派遣した。初の韓中学術交流だった。
中国との学術交流の扉を開いた朴は、ほどなくソ連との学術交流も推進した。88年のソウルオリンピック終了直後に打診しはじめ、89年初頭にはソ連政府から入国許可を得た。
朴はソ連踏査で、中国で目にした以上の衝撃を受けた。もっとも成功した共産主義国家という朴が抱いていたソ連像は、もろくも崩れ去った。
「当時の研究者らは、ソ連が経済的に発展した軍事大国というイメージを持っていました。ところが実際は、中国よりもずっと生活状況が悪かった。ソ連にもう少し早く来ていればと後悔しましたよ」
ホテルや高級レストランで出された汚れたタオル、コーヒー一杯飲むために30分も待つモスクワ市民、先頭が見えないほどのパンの配給行列…。朴は今もソ連の困窮ぶりが鮮明に思い浮かぶという。初めての訪問は遅かったが、収穫は多かった。
朴は、慶南大とソ連の複数の大学の間で、学術交流プログラムを始めた。学術交流はその後、東欧諸国との間でも活発になった。
「数年前、ゴルバチョフ元ソ連大統領に会って当時のことを聞くと『反対もあったが韓国との関係改善のために了承した』と言っていました。指導者の決断一つが国家間の関係構築にどれほど役に立つのか、実感させられました」
自由民主主義の西側陣営と共産主義の東側陣営が一触即発になるまで対立した80年代の冷戦期。朴は共産主義体制の2大大国であるソ連と中国の現状を踏査しながら、北朝鮮研究の地平を開いていった。
(敬称略、ソウル=李民晧)