序曲(55) 金鶴泳

日付: 2010年02月03日 00時00分

 洋子と肉体関係に及んだのは、その不安を掻き消すためだったのだろうか-祥一は、「L」の広い窓ガラスから外を見やり、煙草を吹かしながら当時を振り返った。
 洋子と肉体関係に入ったのは、その直江津旅行から帰って数日後に、洋子の部屋を訪れたときだった。彼は、洋子の肉体を貧(むさぼ)った。欲望に飢えた動物のように、貧った。あの振舞いは、洋子に対する愛情からだったろうか?-彼自身、そうは思えない。単に動物的な衝動に身を委ね、自分の中の不安、あるいは鬱屈したものを忘れようとしたにすぎなかった気がする。
「アパートは、ここから遠いの?」
 洋子は最後のアイスコーヒーを飲み干していった。祥一はわれに返り、
「歩いて二十分ぐらいなんだ。バスで行くことにしよう」
 女の足では、歩いて行くのは遠いだろう。バスにしよう、と彼は考えた。
「そろそろ行きましょうよ。早くお部屋を拝見したいわ」
 洋子は促した。


「それより、君、昼飯はまだだろう?」
 洋子はうなずいたが、
「でも、まだあまりお腹(なか)が空(す)いてないの。祥一さんは?祥一さんが空いているのなら、おつき合いしてもいいけれど」
「ぼくもあまり空いてない。朝飯を食べたのが、十時すぎだったから」
「じゃあお部屋の方を先に見せて」
「そうするかい。じゃあここを出よう」
 彼は、煙草の火を灰皿に揉み消し、アイスコーヒーを飲み干して立ち上がった。レジで勘定をすませて外に出ると、彼は洋子を駅前通りのバス停留所に導いて行った。
「祥一さんは足がながいから、ついて行くのに骨が折れるわ」
 洋子は日傘をさし、笑いながらいった。
 洋子が彼のことを、祥一さん、と呼ぶようになったのは、肉体関係に入った日からである。それまでは、金さん、と呼んでいた。
 高校時代はもちろん森本さんと呼んでいたわけだが、上京して半年後、新宿のレストランではじめて会ったとき、洋子がかつての習慣から、相変わらず彼のことを森本さんと呼ぶので、
「ぼくは、いまでは、金という本名を名乗っているんです。だから、これからは、金と呼んでくれませんか」
 と彼はいった。
「金さん?それが本当の名字なんですか?」
「韓国人ですから」
「それはずっと前から知っていましたけれど、本当の名字がわかりませんでした。高校の同窓生に、安原和子さんという人がいたでしょう?」
「ええ、知っています。同じクラスになったことはないけど」
「安原さんのお家が、わたしの家から割合近いんです」
 安原和子の家は、敦賀の津内町で焼き肉屋をしていた。
「それでよく一緒に学校に通ったものですけど、あの人も韓国人で、本当の名字は安さんというのだそうですね」
「そうです」
 洋子は、韓国の人とか、韓国の方とかいわずに、韓国人といった。そのちょっとした言い草で、彼は、洋子は自分が韓国人であることに、別にこだわりを持っていないのを感じた

1984年9月5日4面


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